仏教での愛と慈悲

(愛を語る第7歩)

不定期投稿

 

さてここから仏教に入る。このブログは、仏教徒のブログなので、日曜日に主に仏教の投稿をしている。今まで見た、他の宗教に於ける「愛」もこれから勉強する仏教に於ける愛も、客観的視点からその宗教を見ると言う点において面白い。だって、何故我々は同じ人間で、これだけ違う宗教を信じ、また無神論者もいるのだろうか?神の元に人を愛する人も居れば、神の元に人を殺す人もいる。仏様には、大乗、上座部、或いは、大乗にも真言宗、臨済宗、禅宗、浄土宗、浄土真宗、日蓮宗、その他沢山の宗派がある。他の仏教国もある。後からやって来たナマケモノにとって、残り少ない人生の中、「御世話になっている仏教のコアな部分が学びたいのだ」と言うのは正直なところである。或いは、そのコアな部分は、少し仏教から離れて見ると分かるのかも知れない。

 

仏教における、いわゆる"愛"(英語でloveに相当するような概念)について説明するには、「愛」と翻訳されている概念と、「慈」や「悲」と翻訳されている概念について説明する必要がある。

「愛」に相当する、概念には サンスクリット語ではtRSNaa तृष्णा、kaama काम、preman प्रेमन्、sneha स्नेह の4種がある。」Wiki

 

「愛」と言う概念

①tRSNaa (トリシュナー

「人間の最も根源的な欲望であり、原義は「渇き」であり、人が喉が渇いている時に、水を飲まないではいられないというような衝動をいう[19]。それに例えられる根源的な衝動が人間存在の奥底に潜在しており、そこでこれを「愛」とか「渇愛」と訳し、時には「恩愛」とも訳す。

広義には煩悩を意味し、狭義には貪欲と同じ意味である。

また、この「愛」は十二因縁に組み入れられ、第八支となる。前の受(感受)により、苦痛を受けるものに対しては憎しみ避けようという強い欲求を生じ、楽を与えるものに対してはこれを求めようと熱望する。苦楽の受に対して愛憎の念を生ずる段階である。」Wiki

 

今まで勉強した他の宗教の愛と違うのは、12因縁と言う12の要素の一つが、「愛」である点である。僕が倒れる前に作ったスライドを、参照下さい。トリシュナーと言う呼び方は全く知らなかった。

 

 

②kaama (カーマ)

「kaamaはふつう「性愛」「性的本能の衝動」「相擁して離れがたく思う男女の愛」「愛欲」の意味に用いられる。これを「婬」と表現することが多い。仏教では、性愛については抑制を説いたが、後代の真言密教になると、男女の性的結合を絶対視するタントラ教の影響を受けて、仏教教理を男女の性に結びつけて説く傾向が現れ、男女の交会をそのもの、あるいは仏道成就とみなす傾向さえも見られた。密教が空海によって日本に導入された時は、この傾向は払拭されたが、平安末期に「彼の法」集団(俗に立川流と混同される)が現れ、男女の交会を理智不二に当てはめた。

性愛を表す愛染という語も、この流れであり、しばしば用いられる。」Wiki

 

前に勉強した他の宗教にも、性愛を分けた宗教が多かった。

性欲とは愛なのか?愛じゃ無いのか?

性欲など満たされ無くても生きて行けるのか、生きて行けないのか?

性欲が存在することは間違いなく、否定が出来ない。

この葛藤を、宗教はどうやって人間に納得させるのか?

しかも、これは生殖の問題でもある。

1回性交しても、100回性交しても、子供ができる時は出来る。

 

僕は、この点で親にも、知らぬ人々にも戒めを受け、今日があるようだが、では2年前に母に殺されかけた僕は、今日まで全く射精などしていないが今のところこの事で体調は悪くない。多分、人間は、少なくとも男は、射精しなくても死なない。ついでに言うなら、これだけ皆から嫌われて誰も愛してくれないが、今のところ生きている。

でも、重要なのは、「生きる為に宗教の救いは常に必要としている。」と言う点だ。仏様には、「今回の命の危機も助けられたのだ。」と言う真実だ。

 

次回に続く。

 

合掌

 
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