十津川郷士たちは、禁裏御守衛に取り立てて貰うべく京に出て、梅田雲浜から有力な人物

を紹介、顔つなぎをしてもらっています。

 

 

西田正俊著「十津川郷」には上平主税らが接触をもった人物の名が列記されています。

 

主税らは、先ず長州大坂藩邸留守居役宍戸九郎兵衛と会い、ついで三条実美、豊岡健資

(けんすけ)正親町公董(きんただ)東久世通禧(みちとみ)烏丸元亭(もとすけ)各卿

に会って勤王の志を述べています。

 

これら諸卿は尊攘派の公卿として宮廷でも聞こえた存在で、雲浜とも密かに気脈を通じて

いたようで、訪れた主税らに「時局多難な折、御親兵とは殊勝な志。機会をみて廟議に

のせよう」とねんごろに言葉をかけ、邸への出入りも許したとあります。

 

一方、長州藩宍戸九郎兵衛は雲浜とは肝胆相照らす仲で、主税らの目的を会う前から

知っていたらしく、顔を合わせるなり、物産交易の話を持ち出しています。

 

十津川の特産木材を長州藩が買い上げ、その代金を十津川郷は京での活動費に充てれば

よい。また両者は今後しばしば密議をすることになるだろうが、それも交易の商談という

ことにすれば怪しまれないだろう。というものでした。十津川郷の長州藩との連携はこれ

を機に深まり、郷土の宮中出仕運動も、長州藩が協力に後押しをすることになります。

 

それから三ケ月後の安政五年(1858)五月、主税らはさらに強力な後ろ盾を得ます。

青蓮院宮尊融法親王に目通りがかない、郷の悲願を直接言上、聴許を得ることが出来た

のです。雲浜の弟子で、青蓮院の執事を務めていた伊丹蔵人のとりなしでした。

 

尊融法親王(そんゆうほうしんのう)とは、後の中川宮朝彦親王で、公武合体派の重鎮

として宮廷をリ-ドしたことでよく知られていますが、この時はまだ僧籍にあって青蓮院

の門跡を務めていました。

 

この宮は、伏見宮貞敬(さだよし)親王の第四子に生まれたが、母方が微賎の家系であ

ったので、ほどなく臣下(諸大夫)に落とされ、本能寺へ僧の修業にやられていました。

十二歳のころまでつらい修行に耐えていたのを哀れに思ったのか、仁孝天皇が、自分の

猶子としたため、皇族の身分として興福寺一条院や青蓮院の門跡におさまることが出来

たのです。

 

そんな訳で、宮は仁孝天皇を深く徳とし、その皇子であった孝明天皇を兄と仰いで献身的

に仕えました。何事も孝明帝第一で、帝の意中をすばやく読み取り、実行しています。

 

孝明帝が神経質なほど夷狄ぎらいで心痛していることを知るや、宮は忽ち強硬な攘夷論

を唱え、激しく幕府を非難。一方朝廷には直属の軍隊、御親兵の創設を建議し、自身は

京の寺院に触れを出し、僧兵隊を結成、僧侶に武術を習わせ、黒船が大坂湾に来たら真

っ先に禁裏に駆け付け帝の警固に任ずると天下に喧伝しています。

 

この時の宮は、思想というより、孝明帝への恩義と忠義心から出たものですが、天下の

尊攘志士たちは、そうとは気付かず、額面通りに受け取って、宮を尊王攘夷の旗頭と

仰いだようです。宮は当時、青蓮院が粟田口にあったことから「粟田宮」とも呼ばれま

したが、志士たちにとって、この名はまさに、聖なるシンボルだったようです。

 

とにもかくにも、こんな大物に拝謁できるなんて、主税たちは、それこそ夢をみている

ようだと驚き、喜んだことでしょう。実際、親王が一介の山賤に目通りを許すなどあり得

ないことですが、これが実現したのは、仲介の伊丹蔵人の努力も勿論ですが、宮も主税

ら郷士の訴えに興味を抱いたからでもありました。

 

郷士千余人を禁裏の警衛に差し出したい、という十津川郷の訴えは、かねてから御親兵

の創設を叫んできた宮のおもわくと一致しているし、宮にとっても心強い同志の出現に違

いなかったことでしょう。

 

上平主税ら郷士達が、青蓮院宮に拝謁した日はいつだったか、正確な日時の記録はどう

いうわけか残っていないそうですが「十津川記事」や上平主税の「遺書」などに断片的に

残された記述から推測すると、謁見は安政五年五月に行われ、主税や郷士代表四名に

梅田雲浜も同道して青蓮院の叢華殿に伺候したようです。

 

その時、宮からは、近々参内するから、十津川郷の歴史や朝廷との由緒などを文書にして

差し出すよう沙汰があったとあります。そこで、長老の丸田藤左衛門が後日、由緒書

謹記して奉呈したところ、宮は嘉納の上、金子千疋を賜ったといいます。

 

主税らの喜びは当然のことながら、同道した梅田雲浜までが、おおいに喜び、わざわざ

十津川までやってきて、郷士らを激励して回った。安政五年六月だった。

と「十津川記事」は伝えています。

 

雲浜は、数日間、十津川に滞在して、京へ帰り、野崎主計深瀬繁理が京まで送って行

ったそうですが、主税は郷に残り、勅命が下り次第、直ちに呼応できる準備を整えていま

した。

 

郷士の動員準備は六月中に整い、主税らは首を長くして勅命を待ったものの、何の便りも

ない。九月に入り、たまりかねた主税は様子を見るために上京することにしました。

この時、護衛として同道したのが、郷内一の剣客と言われた風屋の前木鏡之進でした。

 

前木鏡之進については、私が”もっと十津川郷や郷士たちを知りたい”というきっかけと

なった、十津川郷紀行「田中光顕歌碑を訪ねて」で前木家を訪ねていますが、その時の

レポを含めて、後日に登場してもらうつもりです。

 

さて、京へ出た主税たちは、思いもしなかった嵐が吹き荒れているのを知りました。

世にいう「安政の大獄」です。「十津川草莽記」より

 

まだまだ勉強は続きます。次回へ