前回に続きます。

吉見良三著「十津川草莽記」より

 

伝奏方より首の宣告を受けた十津川郷士達は、ここで京を放逐されたら、何もかも水の泡。鴨川の河原で天幕ぐらしをしてでも、もうしばらく京に居たいと、皆、必死の思いで許しを請うべく、郷士達そろって野宮邸で土下座をし、中川宮邸にも日参して哀訴しています。

十津川記事は続けて、「然ル処、日ナラズシテ学習院ニ移リ尋テ下加茂神社ノ守衛ヲ命セラレタル次第ナリ。偖右ノ如ク突然御守衛ヲ免セラレントセシハ、固ヨリ朝廷ノ思召ニアラテ、全ク幕府方ノ計略ニ出シモノト想像セラレ、朝廷ニ対シ奉リ、恐レ入リタル事共ナリシ。」

 

何とも呆気ないような幕切れでしたが、伝奏方でも本気で罷免するつもりはなかったのか或いは中川宮のとりなしがきいたのか、七月二十三日、禁門の変の四日後に十津川隊は下加茂神社の守衛を命じられ、糺の森へ移動したのです。

                 下加茂神社

 

禁門の変で市中は焼け野原になったが、下加茂神社や糺の森のあたりは無事で、大勢の市民が避難してきており、治安が悪くなっていました。

下賀茂神社は王城鎮護の神として、昔から朝廷の信仰が篤く、こうした災害時には御所の避難場所にもなっていたので、伝奏方も不祥事を警戒して、十津川郷士に警備をさせています。

 

ところで、先の「十津川記事」に戻りますが、この記事の内容をそのまま受けとると、伝奏方の罷免申し渡しが、郷士ら自身の失態とは気付かず、もっぱら幕府の妨害によるものと信じ一方的に恨んでいることになります。どう解釈すればいいのか・・・

 

幕府の妨害といっても、当時は朝廷、幕府ともに公武合体派の全盛時代で蜜月の間柄。幕府には十津川郷士を排除する必然性はなかったし、十津川郷士はまた、幕府に敵視されるほど手強い存在でもなかった。にもかかわらず郷士達がそう思っていたとすれば、その認識の甘さが問題でした。事実、郷士の多くには、こういう現実から遊離したような独りよがりの気分があったようです。

 

辺境の山家育ちがもたらした気質で、現実の感覚からは幾分ずれており、そんな能天気な気分が、緊急時に大事な手続きを失念させたり、勝手に持ち場を離れたりさせたのであろう。上平主税は、この度の一件により、それを痛いほど覚らされました。

そこで主税は隊の立て直しを決意し、丸田藤左衛門ら京詰めの幹部と相談して改革に乗り出しました。

 

先ず、何より急を要するのは、兵員の刷新と戦闘能力の向上、組織の強化でした。

交代期については、これまでの年二回(二月、八月)から二、五、八、十の年四回に改め各半年間勤務させることにしました。交代の機会を増やして新陳代謝を早め、質の向上を図ろうとしたのです。

 

併せて屯所の機構や人事も改革されました。屯所は従来、主税が総代、丸田藤左衛門、吉田源五郎、田中主馬蔵の三人が取締役となって運営してきたが、丸田が還暦を迎えたので、顧問格に退き、新たに千葉定之介、深瀬仲麿、前田雅樂の三人を取締役に加えて陣容を強化。新取締役は吉田が代表で全般を統括、千葉は物産交易と財政、深瀬、前田は周旋方として、朝廷や関係諸藩との折衝に当たるという体制で、それぞれの分担と責任の所在をはっきりさせたのです。

 

顧問に退いた丸田藤左衛門と上平主税は交互に郷と屯所の間を往来、これまで円滑を欠きがちだった両者の意思疎通を図ることにしました。

 

新しく筆頭取締役となり、屯所の運営責任者となった吉田源五郎は、天保八年(1837)十月生まれで、このとき二十七歳。主税よりは十三歳年下になります。筆まめで、郷里の父や友人にしばしば達意の手紙を書いています。西田正俊著「十津川郷」は、吉田を評して、「資性俊敏頴聰」だったとしています。頴とは稲や錐の穂先のことで、穂先は嚢に包んでおいても自然に尖端をあらわすところから、転じて鋭い才気、またはその人を指す(広辞苑)というから、吉田は、だれがみても一目で才子とわかる怜悧な人だったのだろう。こういうタイプは万事に有能で信頼を得やすいが、どこか冷たく、近づき難いところもあって、敵をつくることも多い。その点では主税とは対照的な人物だったようです。

 

主税も「十津川の知恵袋」と称えられたほど、満身これ知恵の人で、その知謀、才略を存分に発揮して、郷士の禁裏出仕という破天荒な企てを成し遂げた。この壮挙には大勢の郷民が加わりましたが、彼らが困難を敢えてしたのは、尊王攘夷という大義に感じ入ったからではなく主税の温かい人柄を愛し、信頼していたからでした。

つまりは道理よりも情に動かされたのでした。ただこの「情」も一歩誤ると慣れ合い体質を生み、京詰めの郷士が禁門の変で醜態を晒すことになったのもこうしたところに遠因があったのでしょう。

 

”情”が原因である以上、これを是正するには主税流に情に訴えるだけではできない。

時には理詰めの非情も必要で、吉田源五郎の起用は、この点では当を得たものでした。

 

吉田が筆頭取締役になってまず手を付けたのは、御守衛隊士の装備の強化でした。

禁門の変で彼は郷士の武器が諸藩のそれとは比較にならないほど低劣であることに気付かされました。諸藩の兵は大半が洋式化され、ゲベ-ルやミニエ-ルといった最新の銃を装備して、激しい銃砲戦を展開したが、十津川の郷士は、火縄銃がせいぜいで、あとは旧来の刀槍だけ、その刀槍も粗悪なものが目立ったといいます。

 

これでは禁裏の御守衛どころではない。一刻も早く装備を改めねば・・内裏にまで飛来する両軍の激しい銃砲戦を目の当たりにして、吉田は痛切にそう思いました。

次回に続きます。