吉村寅太郎 米の徴発へ

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西口紋太郎著

天誅組「重阪峠」より

吉村隊「風の森峠に布陣」の項に続きます。

 

「歴史の裏街道を行く農民」

 

風の森峠の頂上の神に戦勝の祈願を了えた

第二隊長吉村寅太郎が目指した次の策は米の

徴発でした。

 

頂上近くの「南郷屋徳兵衛」宅にて休息した寅太郎は村役人や百姓を集めて米の徴発を

命じたが、この辺り挑発に応じられるほどの農家は一軒もない。

しかし、風の森峠の西

「高鴨神社」 奈良県御所市鴨神

 

神社前のいわゆる「葛城の道」を北へ約1kmほど行くと北窪という村がある。

 

 

そこに、窪田助左衛門という大長者がいた。窪田は近郊近在きっての大地主で、毎年質米

、年貢米等合せて千石以上の米を倉庫に積み上げたといわれていて、名字帯刀まで許され

た実力者であったといいます。徳兵衛からその話を聞いた寅太郎は直ちに窪田へ隊士を

派遣した。

 

いたら見てこい

西北窪の

窪田の二階の千両箱

見やれ

積んであります

切り干しを!

 

こんな唄が近郊近在の人々に歌われたほど、窪田助左衛門は大長者であり付近住民に君臨

していた実力者であったといいます。

窪田の邸宅跡は今、森村宗之丞氏の住居となっているがその屋敷造りと豪壮な石垣組みを

見ても窪田助左衛門の権勢が如何に豪華であったかが窺われる。

ともかく、窪田は天誅組の米の徴発命令には素直に応ぜざるを得なかったようです。

 

はらわたが煮えたぎる程こみあげてくる怒りを押え、一世一代の屈辱を忍んで徴発に応じ

たらしいが、さて、米は米はどうにか徴発したもののこれを運搬するのに天誅組も困った

らしい。天誅組と聞いただけでも身震いするほど恐れられている天誅組が目の前の風の

森、重阪に陣を布き、一方郡山柳沢の兵が御所(ごせ)に押し寄せたといい、紀州の徳川

が大軍を率いて橋本から五條へ入ったといい、又、高取藩の植村がどうだとか、いろん

な情報とデマが乱れ飛んで付近住民は生きた心地もしない時、天誅組の徴発米を運搬する

勇気のある者も、無鉄砲な者もいるはずがない。しかし幸田政治郎翁の祖父常蔵は、悲愴

な決意の下にその運搬夫を集めた。これに応じた者は、善七、善四郎等であった、善七は

現鴨神の森村要太郎氏の曽祖父、善四郎は同鴨神の田中政治氏の先祖である。この二人と

他の数名も恐らく死を覚悟してたであろう。

風の森の南郷屋徳平も、鴨神の常蔵も、挑発に応じた窪田も、天誅組に少しでも好意を寄

せ援助した者は、やがて必ず、徳川の役人からどんなむごい刑罰を受けるかもしれん事を

既に覚悟していたことであろう。(天誅組重阪峠原文まま)

 

幸田政治郎翁や鴨神の森村要太郎氏については、今回は探し当てることが出来ませんでし

たのが残念ですが、次の機会にでもリベンジしてみるつもりです。

 

その窪田家(今、森村家)は、上記葛城の道マップの黄色の地点、極楽寺と橋本院の中間

になります。北窪というだけできちんとした住所が分らないので苦労しましたが、極楽寺

で修復作業をされていた宮大工の皆さんに教えていただき、見つけることが出来ました。

 

 

今から42年前の昭和51年(1976)に取材された森村家(窪田家)の写真とほぼ変わらぬ

豪壮な石垣組みが、そのまま残っています。

 

現在の当主さんは、森村宗之丞氏の息子さんの代となられていました。ちょうど私と同世

代と思われる現当主さんは、快く応対してくださり色々とお話を伺うことが出来ました。

 

天誅組がこちらの方に来たかどうかの話は聞いていなくて分りませんが、窪田家とは親戚

筋にあたり、何でも他人さまの人手に渡るのを嫌がっていたということなので、父の宗之

丞が買いうけたと話されておられました。尚、窪田家の末裔の方は隣村の橋本院という

所にお住まいされているそうです。当時の話をご存知かどうか?機会があれば次の機会

にも訪れてみたいと思っています。

 

現在のお家は、勿論大幅に改築、改修されているそうですが、建物構造や敷地、石垣など

根本的には150年前と変わってないそうです。

 

”窪田の二階の千両箱” 想像するに値する面影が印象的でした。