前回に続いて

禁裏御所の守衛につく諸藩に比し、質と装備が劣弱であった十津川郷士が禁裏警衛のご

用を果たすにはそれ相応の兵員数と装備が必要でした。

 

且つ、兵は訓練の行き届いた精鋭で、装備も最新の精巧な武器を整えておらねばなりま

せん。そのころ、交代で宮廷を警固していた会津や薩摩、桑名、越前、水戸などの諸藩

は、さすがにそのへんはぬかりなく、充実したものを持っていました。

 

が、十津川の御親兵は、その点で哀れなほど劣っていました。

頭数こそ二百人と、一応そろっていたものの、中には五十歳を超えていそうな白髪の老

兵や武術など知らない樵夫、文字の読めない小前農夫など、誰が見ても御親兵には不適

格なものが、相当数混っていたようです。

 

装備も諸藩はすでに新式の洋式銃を備えていたが、十津川の御親兵は火縄銃がせいぜい

で、あとは伝来の刀槍だけ。これではとても外夷と対抗できまい。というので、御守衛の

列から外されることになったらしいです。

 

そんな中、元治元年七月十九日(1864年8月20日)、御所を砲火に包む、いわゆる

「禁門の変」を迎えることになります。

 

「禁門の変」とは前年(文久三年)の八・一八政変で、京を追われた長州藩が、再び京

に戻り、公武合体派に握られていた朝政を、尊攘激派の側に奪い返そうとして起こした

軍事行動のことですね。

 

禁門の変については2015年1月に御所巡りをしたときに投稿した拙ブログにも書いて

います。その時の記事を参考までに下記に張り付けておきます。

 

 

この頃の長州藩は、失脚後、失地回復をめざして様々な策略を展開しています。

その一つが肥後の宮部鼎蔵、土佐の北副佶磨ら諸国の激派志士と結んだ天皇奪取計画

です。烈風の夜を選んで京の各所に火を放ち、御所に乱入して天皇を連れ出し、長州に

動座を願う。さらには余力をもって中川宮と守護職の松平容保を斬るというもので、

玉(天皇)を握って形勢を一気に逆転させようと図ったものでした。

 

ところが、この計画は土壇場になって挫折してしまいます。

首謀者の宮部鼎蔵ら二十数人が、元治元年六月五日夜、最終的な打ち合わせをするべく

三条小橋の旅館「池田屋」に集まった所を新選組が探知し、現場に踏み込んで宮部ら

六人を斬殺、二十六人を逮捕した。いわゆる「池田屋事件」ですね。

 

長州藩はこの計画を背後から操り、天皇動座に備えて、迎えの太兵を大坂へ送る手筈ま

でしていたが、やむなく計画を修正、用意した大兵を大坂から京へ向かわせ、京を包囲

して朝廷を脅し、七卿、藩主父子の免罪と入京許可を勝ち取る作戦に出た。

これが「禁門の変」の発端になったと言われています。

 

長州の大軍は六月下旬から数組に分かれて上京。家老福原越後の兵三百は伏見の藩邸

に、家老国司信濃の兵三百と来島又兵衛の遊撃隊四百は嵯峨の天龍寺に、家老益田右衛門介の兵六百は男山八幡に、そして久坂玄瑞と久留米の神官真木和泉が率いる清側義軍

約三百は男山の対岸山崎・天王山に布陣しています。

 

この清側義軍(せいそくぎぐん)は藩の非正規兵と諸国の志士との混成隊で、非正規兵は

久坂玄瑞が、志士の方は真木和泉が指揮をとっています。

 

長州側は三方から御所を威圧する一方で、久坂玄瑞、真木和泉、入江九一ら論客が、

八・一八政変以来、御政道を乱している君側の奸(松平容保)を排除し、正しい尊王攘夷

の道に戻って叡慮を安んじ奉らねばならぬ、といった旨の長文の陳情書や建白書を、連日

朝廷に秦呈して、若い公卿らの心理かく乱を図っています。

 

朝廷では禁裏守衛総督の一橋慶喜が、長州側に対し、七月十七日までに撤兵せよ、と

命じたが、長州側がこれを無視したため十六日の朝議でついに討伐を決定しています。

 

また、長州側でも翌十七日、男山八幡の益田右衛門介陣所で最後の軍議を開き、戦闘

突入を決めています。来島、久坂、真木三人のうち、久坂は慎重論を唱えたが、来島、

真木の二人が強硬論を主張、開戦に至っています。

 

 

七月十九日の明け六ツ(午前六時)両軍は伏見と御所の蛤御門、堺町御門の三か所で

激突しました。伏見の戦闘は、長州の福原越後隊が、大垣、彦根の諸藩に敗れ大坂へ

逃げたが、御所の二門では、両軍死力を尽くしての激戦となりました。

 

最大の激戦は、蛤御門の攻防で、ここには天龍寺から来た長州の国司、来島隊と、守備

の会津藩が一進一退の死闘を展開、会津側が押されて崩れかけた。

これを見た守衛総督の一橋慶喜が手兵を投入、桑名、薩摩の両藩兵も加勢に来て形勢は

逆転、長州側は隊長の来島が狙撃に斃れ、兵も精強の薩摩兵に痛めつけられ潰走しまし

た。

 

また、久坂玄瑞や真木和泉の隊は午前六時頃堺町御門に達し、すぐ隣の鷹司邸に入り

込みました。主の鷹司輔煕(すけひろ)は、八・一八政変で追われた前関白です。

長州藩と気脈を通じていたので久坂、真木らはここに立てこもったのです。

 

やがて、蛤御門で敗れた来島隊の一部も合流、長州側は勢いを盛り返しましたが、守衛

総督の慶喜は会津、越前、薩摩の諸藩に邸の焼討ちを決断、会津藩の大砲を繰り出して

砲撃。塀はたちまち破壊され、邸も炎上したので、長州側はたまらず敗走、久坂玄瑞は

自刃、真木和泉も二百の残兵とともに、いったんは山崎に退いたが、二十一日夜、同志

十六名とともに自刃しています。

 

こうして、戦闘は九ツ(正午)前に終わったものの、鷹司邸を焼いた火の手は民家に移り

さらに守護職の兵が市中に潜む残敵掃討のため建物に火をつけたりしたので、市内は

二十一日の夜まで、三日三晩にわたって燃え続け、洛中八百十一町を焼き尽くしたと

いいます。

 

焼失家屋は三万軒、寺社も東本願寺など、二百五十三ケ寺が焼けたといわれ、十津川

郷士の最初の屯所となった寺町通三条下ルの「円福寺」もこのとき焼失しています。

 

六時間足らずの戦闘にしては、大変な犠牲ですが、この戦いの何よりの特異性は、御所

が戦場となり、内裏にまで大砲が撃ち込まれたことでした。

これは日本史上でも、おそらく空前絶後の出来事だろうと言われています。

 

では、この御所の大危機に際して、禁裏御守衛を自認する十津川郷士は、いったい

どうしていたのでしょう。

 

次回に続きます。