久し振りの京都散歩です。

これまで何度も訪れている幕末のメッカ「京都」ですが、よくよく考えれば、たいして訪問して

いないことに思い至ります。それは、お隣の都市といえども費用的にもばかにならず、

貧乏爺さんにとっては結構大変なのです。  

 

そんなこんなで、今回も出来るだけ効率よく廻ろうということで豊国神社境内にて大阪からくる友人のSさんと待ち合わせることにしました。

今日は安宿に一泊ということで、車で待ち合わせ場所に行き、ちょうど神社前を歩いているSさんを見つけ、そのまま合流におよび今日のメインの一つ「妙法院門跡」に向かいました。

 

車の場合は、先ずは安い駐車場探しから始まります。 この辺は二人のコンビネ-ションがピッタリなので比較的、速い段階でみつけることが出来ました。

 

やってきました! 

先ずは「妙法院門跡」からまいります。

 

所在地 :京都市東山区妙法院前側町447

山号  :南叡山

宗派  :天台宗

本尊  :普賢菩薩(重要文化財)

創建  :平安時代初期

開基  :最澄

文化財 :庫裡、ポルトガル国印度副王信書(国宝)

大書院、木造普賢菩薩騎象像、絹本著色後白河法皇像ほか(重要文化財)

 

「門跡」とは、皇族・貴族の子弟が歴代住持となる別格の寺院をいいます。

妙法院は青蓮院、三千院(梶井門跡)とともに「天台三門跡」と並び称されています。

また、後白河法皇や豊臣秀吉ゆかりの寺院としても知られています。

 

本日5/14はブロ友さんに聞いていたように、毎月14日の日は「法要」とのことで門が開いている。との情報を得ていたのでこの日を選んでやってまいりました。

今日は「法要」というより特別拝観のイベントとなっていました。

流石に多勢の拝観者が来られていました。

多分幕末史の「七卿落ち」の碑を目当てに来たのは我々だけだったと思います(^O^)

取り敢えずは、「妙法院門跡」というものを見学しなければ罰が当たる!(*^▽^*)

早速、観て回ることにしました。

 

伽藍は西側を正面とし、東大路通りに面して唐門と通用門があり、境内に入ると西側正面に玄関、その左手には庫裡(国宝)、右手には寝殿が建ち、東側の境内奥には大書院、護摩堂、聖天堂などが建っています。これらの堂宇の間は渡り廊下でつながれています。

本尊普賢菩薩を安置する本堂(普賢室)はやや離れた境内東南方に建っています。

 

それでは順に拝観していきます。

 

「大玄関」

大書院と玄関は、元和5年(1619)、中宮東福院(秀忠とお江の娘)入内の際に建築された女御御所の建物を移築したものと伝えられているそうです。 

「唐門」
説明板によると、唐門は境内の南西隅、東大路に面して建ち、江戸中期の桜町天皇下暢と伝えるとあり、勅使門で、呼称とは異なり檜皮葺・切妻造り・平入りの四脚門となっています。


庫裡(国宝)

本日は、特別拝観の日でしたので、庫裡内部を見学することができました。

残念ながら、この後の本堂(普賢堂)も内部は撮影禁止のため画像はありません。

庫裡の中には若い女性ガイドさんがアプロ-チブックを遣い説明されていました。

 

妙法院庫裡は、豊臣秀吉が先祖のための「千僧供養」を行った際の台所として使用されたとあり、事実広い土間には大きな釜土が確か、四つ並んでおり、そのふたの大きさには驚かされました。ガイドさんに、幕末、七卿さんはじめ凡そ100人もの長州関係の人もここで食事されたのでしょうか?と聞きますと、キョトンとした顔をされ、何ですかそれ?と聞き返されました。

そうか聞いた僕らのほうがマイノリティーなんだ。(w_-; 

だけど、wikipediaにも、一行ながら「七卿落ちの舞台」ともなっていると掲載されて いるではないか。。。。(`×´)

そして、境内東南方にある本堂に向かいます。正面に見えるのが特別公開の本堂や

寝殿です。

当然、普段はこの柵も閉じられているとのことですが、実はこの柵を入ったすぐ右手に我々が目指した「七卿落ちの碑」があるのです。思った通り、誰も碑の前で足を止める人は居ませんでした。 我々も、取り敢えず、本堂の公開日なので、「七卿西竄記念碑」は最後にしようと、その前を通り過ぎ、受付に向かいました。

五月会ご奉納散華記名所

散華に願い事と名前を記入して、本堂とご本尊正面の花篭に奉納するようです。 

お一人何枚でもOKと書いていましたので私は三種類(赤、青、黄)の散華に願い事を

書いて奉納しました。

恥知らずと厚かましさは関西人の文化なのです。(^-^)/

ここから先は撮影禁止ですので本堂の中のご本尊普賢菩薩さまや、書院などの襖絵やその他の重要文化財を紹介することは出来ませんが、何せ初めての訪問でしたので分らないなりにも素晴らしいものを見せていただきました。

 

最後はお目当ての「七卿落ち」の碑を初めて拝見いたしました。

幕末フアンなら(特に長州)誰でもご存知の「七卿落ち」文久三年(1863)あの有名な

8・18の政変により御所より追放された三条実美ら七公卿と長州藩兵が妙法院に集結。

合議の末、市内戦を回避、後の維新を期して、翌19日午前4時ごろ折からの雨(台風到

来ともいわれている)の中、出発午前10時ごろ伏見・長州藩邸に寄り、桂川西岸に沿っ

て山崎に夕方高槻・芥川宿で一泊とある。

 

ぬかるんだ泥道を異様な姿で歩く行列を描いた「七卿落ちの絵」をみて強烈な印象を焼き付けられ一度は七卿の日記に従い、巡ってみたいと思っていました。その原点が、ここ「妙法院」なのです。 8月18日夕、長州藩兵2600人余りを率いて七卿を護衛し到着した久坂玄瑞は即興の今様を歌い「七卿都落舞歌」と題されていると、作家古川薫氏も書いています。

 

その歌を今日の最後に書き記しておきたい。

 

世は刈菰と乱れつつ 茜さす日もいと暗く 蝉の小河に霧立ちて 隔ての雲となりにけりうら痛ましや霊(たま)きはる 内裏に朝夕殿居せし 実美朝臣 季知卿 壬生 澤 四條 東久世其の外錦小路殿 今浮き草の定めなき 旅にしあれば駒さへも 進みかねては嘶ひつつ 降り敷く雨の絶え間なく 涙に袖の濡れ果ててこれより海山あさぢが原 露霜わきて葦が散る浪華の裏にたく塩の からき浮き世は物かはと行かんとすれば東山 峰の秋風身にしみて朝な夕なに聞きなれし 妙法院の鐘の音もなんと今宵は哀れなる いつしか暗き雲霧を払いつくして百敷の 都の月をめで給ふらん

 

 久坂の美声はつとに有名ですが、その哀れな情景が浮かんできます。大河ドラマではこの「七卿落ち」とりあげて貰えるかな?

 

さて、次は何処へ行こうかな。ニコニコ