今日は、朝から快晴晴れ気温も上昇

アップ気分も上々グッド!

 

そこで大和の藩探索!今回が最後の宇陀松山藩へいざ出陣!車で車30分以内で到着。

奈良県宇陀市大宇陀 

史跡松山西口関門(黒門)国の史跡

 

宇陀松山藩といえば、唯一遺構が残っているこの場所。城下町への出入り口として、

 

 

陀川から春日社に抜ける道に位置し、附近には枡形がある「黒門」と呼ばれ、町の人

に親しまれている場所を紹介しなければならないと思います

●城下町「松山」の成立と発展について

「松山町」(現大宇陀町松山地区)は、天正13年(1585)から宇陀郡に入部してきた豊臣

家配下の大名の城下町として成立しました。

関ヶ原の戦いの後、当地の領主となった福島孝治の頃、町名も「松山」と改称されたと

いわれています。

元和元年(1615)に織田信長の次男信雄(のぶかつ)が宇陀を所領し、宇陀松山藩とし

ての藩政が始まります。織田氏は、春日神社の北側に「御上屋敷」を、その周辺の城山

山麓から山腹にかけてと宇陀川の西側に武家地、現在の町役場付近に「長山屋敷」

設け、それらに挟まれる形で町人町を定めました。織田時代には400軒を数える商家が

賑わっていたといいます。

 

元禄年間の織田氏転封の際、織田に関係する施設はすべて取り壊されたため、町人町だ

けが残りましたが、元来奥宇陀・吉野・伊勢方面と奈良盆地とを結ぶ地の利を得ており、

平坦部からは薪炭や木材、特産品の吉野葛・宇陀紙を、また遠く熊野灘の鯖を平坦部に

供給しました。

 

城下町の機能を失っても「宇陀千軒」と呼ばれる繁栄を誇り、薬問屋紙問屋をはじめ

とした各種問屋、小売商などが軒を連ね、18世紀の史料には、三と八の日に市が開かれ

遠く室生・曾爾・御杖・吉野からも客が来ると記されているように、広域な商圏をもつ

在郷町であった。現在の松山地区には、今なお江戸時代後期から明治時代にかけての

建築物が数多く残っています。説明板より

 

それでは、この説明に沿って西口関門をくぐって春日神社の方に行ってみます。

西口関門をくぐった左手に宇陀地区の地図がありました。よし!今日こそは宇陀松山城

に挑戦してみるぞ!と決心し、先ずは春日神社に向かいました。

春日神社の参道に入る手前には「春日門跡」があります。

 

●春日門跡(かすがもんあと)

春日門跡は、松山城下町の出入口にあたる西口関門から続く大手筋正面に位置します。

現在、門跡には虎口(出入口)を構成する東西二つの石垣積の櫓台が残っています。

 

大宇陀町教育委員会による調査の結果、春日門の築造は16世紀末から17世紀初頭にあり

松山城下の建設時に町人地と武家屋敷・城館とを分かつ虎口として造られたことが明らか

になりました。また、現存する櫓台は17世紀後半の織田家宇陀松山藩時代の向屋敷・上屋

敷(藩屋敷)造営に伴う再構築であることが判明しました。~以下略~

桜はほぼ終わりを迎えていましたが、散った花びらの絨毯の参道もなかなかの

もので、ゆったりとした気分で鳥居をくぐりました。また今日も、周りには人影もない

一人散策です。

春日神社の正面にやってきました。本当に雰囲気のある綺麗な神社です。

この石段を上がると・・・

狛犬さんがお迎えしてくれました。あれっ!よく見ると二匹とも首を傾げるようにこちら

を見ているではありませんか?それも愛嬌のある顔で・・・(^O^)

こういうの私は初めて見たような気がします。思わず微笑ましくなりました。('-^*)/

左の石段を登ると本殿になりますが、右は→松山城址登山口となっています。

本殿の参拝は後にして、先ずは史跡宇陀松山城址に登ってみることにしました。

登山道をたった一人、多少不安もありましたが、勇気を出して歩きはじめました。

案の定、結構急坂を登ります。・・・息せき切って・・・何度も途中、息を整えながら・・・

20分も登った所では何やら発掘作業をされていました。声をかけて聞いてみますと、

当時の道を探している。とのことでした。

 

この辺りから「秋山城址」に名称が変わっています。

約35分も過ぎた頃、ようやく山頂が開けてきました。

発掘調査が続けられているのか、ブル-シ-トやテントの跡が残っていました。

ここは本丸跡なのか?天守台のようなものがあり、碑文の文字は判別出来ませんでした

が、大きな石碑が二基鎮座していました。

 

●秋山城(宇陀松山城)

宇陀郡を代表する国人である秋山氏の本城として築かれ、南北朝期に本拠を構えていた

そうです。

天正13年(1585)、豊臣秀長の大和郡山城入部により、秋山氏は伊賀に追放され、その

後、豊臣家配下の諸将(伊藤義之、加藤光泰、羽田正親、多賀秀種)の居城となり、

関ヶ原の戦いの後は、福島孝治が入城しました。城下町の整備も進み、名を「松山」

と改めました(宇陀松山城、松山町)

しかし、元和元年(1615)に福島孝治が改易(宇陀崩れ)されたことで、城は破却を受け、

城としての役割を終えました。

この破却(城割役)を担ったのが小堀遠州と中坊左近秀正だった。

 

福島孝治改易後は織田信雄(信長次男)・高長・長頼・信武の4代が80年にわたり、

織田宇陀松山藩として栄えました。

その後、織田家が元禄8年(1695)に丹波国柏原に移封された後は幕府領となった

~以下略~宇陀松山観光案内ホ-ムペ-ジより

 

しばし、この城跡からの景色に見惚れ、一人占めの贅沢の空間を味わいました。

 

さて、一息ついたところで、下山にはいり、下方の春日神社に向かいました。

ただ、下り坂では呼吸は楽なのですが、今度は足がわらうというのか、足がもつれて

大変でした。(T_T)

黙々と、発掘に精を出す教育委員会の係員に「ご苦労様」と声をかけ、春日神社脇に

下りてきました。路端のこの木は何というのでしょうか?癒される思いでした。

ブロ友のdokilinさんならお分かりでしょうね。(-^□^-)

さて、春日神社に参拝します。本殿に登る石段の手前には手水場があり、先ずは

こちらで、清めの作法通りに手を洗い、口を漱ぎました。

石段を上りきった所の左手には春日神社水鉢江戸時代(元禄6年)があります。

表に「奉寄進」裏に「元禄六年葵酉十二月朔日荻野五郎左衛門」とある。

 

以下、省略しますが、織田家宇陀松山藩時代最後の時期の遺品として貴重である。と書か

れています。説明板より

本当に風格のあるどっしりとした、由緒ある神社であると、お見受けしました。

春日神社由緒

祭神

天之児屋根命(アメノコヤネノミコト)

武甕槌命(カクミカズチノミコト)

経津主命(ツツスシノミコト)

比売神(ヒメカミ)  

 

創建については不詳。しかし、宇陀郡内には興福寺大乗院門跡管領の春日大社領が多く

存在し、当社地も中世の春日庄(応永13年(1406)作とされる「宇陀郡田地帳案」

(春日大社文書)に位置することから、奈良春日大社を勧進したものと考えられる。

 

宇陀松山城と城下町の縄張りを示した「阿紀山城図」(文禄3年写(1594)という絵図

には「春日社」として社地が表されている。

また、絵図に示された宇陀松山城へ向かう大手道は、西口関門から春日門を経ていっ

たん春日神社へ入る。そして神社から再び城へ向かう構造をとる。つまり、この時代の

春日社は城郭の郭としての機能も併せ持っていたのである。~説明板より~

 

西口関門から春日門、春日神社、松山城と歩いて、この説明がよく理解出来ました。

このあと、本来は宇陀の町並み散歩をするべきなのでしょうが、目的は織田家の

歴史散策ですので、またの機会に譲ることとして、西山にある織田家の菩提寺に

向かいました。

西山地区の「徳源寺」が宇陀織田家の菩提寺なのです。

また、石段! 「ここまで来た以上は行かねばなるまいて」 それにしても足が痛い!(ノω・、)

見た感じ、およそお寺とは思えない(失礼)、普通の民家のようなのですが、屋根の

下には織田家の「木瓜紋」が目立ちます。

徳源寺縁起という説明板もありましたが、ほとんど判別出来ません。( ´艸`)

そこで、宇陀市観光サイトより検索してみました。

 

所在地 : 宇陀市大宇陀岩室

宗派   : 臨済宗大徳寺末

創建   : 寛永5年(1628) 仏海祖燈禅師の開山

本尊   : 釈迦如来(坐像)

所蔵   : 開山像、織田家位牌、扁額、狩野元信筆の絵のある戸や錫杖

由緒

寛永5年4月、織田常真(信雄)ここに葬る。同9年、織田山城守長頼が亡き父の菩提の

ため数棟の建物を建立し、長泉山徳源寺と号する。近世、寺運衰微し、現存する建物は

ないが、公墓所として織田松山藩主四代の五輪塔が残る。 

 

それでは墓所に行ってみましょう。

また坂! 徳源寺の裏山へ約100mほどの所に・・・

織田公墓所にやってきました。足の疲れがピ-クにきていましたA=´、`=)ゞ

綺麗に整備された墓所に織田家四代の藩主たち(藩祖の信雄から、高長、長頼、信武)

の五輪塔4基が整然と並んでいました。

五輪塔脇にも小さな五輪塔がずらりと並んでいます。家臣の墓でしょうか?

 

この他大宇陀・松山地区には秋山氏の菩提寺であった法正寺や由緒ある慶恩寺、

松山・神戸地区で最も古い建物のの一つである光明寺など訪れてみたかった社寺

などがいくつもありますが、正直、体力的に目いっぱいとなりました。

大宇陀には、道の駅や、森野旧薬園、古民家住宅、まちづくりセンタ-「千軒舎」など

紹介したい所が山ほどあります。今回で三度目の訪問となりますが、「松山藩」主体での

散策は初めてのことでした。何かテ-マをもって訪れると、新鮮で面白く新しい発見が

あるものですね。何度来ても飽きない「大宇陀路」でした。