今回もお隣の町、田原本町を訪問しました。


車で10分強の距離です。訪問先は田原本町役場です。





奈良県磯城郡田原本町890-1 田原本町役場



平野氏陣屋跡 


文禄四年(1595年)、平野権平長泰(ながやす)は「賤ヶ岳の戦い」での功績が認められ、


田原本に五千石の領地を与えられ、大名並に遇せられ、以来10代280年間政治を敷いた。


寛永五年(1628)二代目の長勝(ながかつ)が入封後、それまで寺内町を支配した教行寺


を退去させて、新たに本願寺派の円城寺(現浄照寺)を建立し、町の東、寺川沿いに陣屋


構築して城下町を形成した。大和川、寺川を利用した水運による大坂との物資の集散地


として問屋が発達し、「大和の大阪」とも云われたそうです。



陣屋の規模は南北約350m、東西120mで、周囲を濠と土塁で囲んでいたらしい。


中央南側に領主平野氏の屋敷があり、北半にあたる現在の役場付近には家臣団の屋敷


がおかれたとある。        説明板より



余談ですが、 平野長泰は、21歳で木下藤吉郎、後の豊臣秀吉に仕えた。信長亡き後、


秀吉と柴田勝家決戦(1583年)賤ヶ岳で軍功をあげ、加藤清正、福島正則らとともに


「賤ヶ岳七本槍」として知られた。「賤ヶ岳合戦図屏風」(大坂城天守閣蔵)に、その雄姿が


描かれています。



昭和40年に撮影された、藁葺の武家屋敷が、この役場付近にあったかも知れない。


勿論、現在はどこを探しても、また役場内やお寺で聞いても解りませんでした。




今回の訪問の大きな目的は、城郭研究会が昭和40年に撮影した、田原本藩の名残り


というか?遺構を求めて、現在、如何になっているかを比較したかったのですが、


この田原本に限っては、町中、歩きましたが何処にもそれらしい所が見当たりませんでした。


因みに上から、田原本陣屋聚落の一部。中は、田原本藩学者屋敷遺構。


下は、田原本藩槍術指南広瀬氏邸遺構。ということです。




いえいえ一つ見つかりました!(ノ゚ο゚)ノ


田原本陣屋(現田原本町役場)の南側に稲荷神社がありますが、その前の自治会長さんの


お家で聞きましたところ、田原本藩には三人の家老が居り、その一つが斜め向かい側の


このお家(表札も広瀬さん)がそうであり、上の写真の槍術指南で家老であったそうです。


近代的な塀に替えられていましたが、門は出来るだけ当時の遺構を残されています。






因みに広瀬邸から南へ60mほどの所に姫路家(家老)がありました。


尚、三人目の家老宅は解りませんでした。


やはり、当時の名残りを遺しているものなのですね。




折角のよいお天気ですし、田原本寺内町をもう少しぶらぶらしてみましょう。


中央、田原本町役場の右下(南西)●津島神社●浄照寺●本誓寺へ行ってみます。



先ずは●津島神社




祭神  素戔嗚尊(スサノオノミコト)・櫛名田姫命(くしなだひめのみこと)


由緒  神仏分離以前には祇園社という。江戸時代には領主平野家の尊崇をあつめ、

     平野家の本貫地尾張国津島にあった津島社も祭神を牛頭天王とするため、

     明治二年社名を津島神社と改めた。

     

     毎年七月には、疫病退散と五穀豊穣を祈願して、江戸時代から続く祇園祭が、

     盛大に行われる。この祇園祭は中和最大の夏祭りとして有名になっています。



津島神社境内には元禄17年田原本村絵図が掲げられています。 小林家文書より。


東の寺川を天然の要塞(濠)として東西に寺内町としてよく立地されています。


この図面のコピ-がないかと、田原本駅前の観光ステ-ション「磯城の里」に立ち寄り

ましたが、残念ながらありませんでした。



観光ステ-ション「磯城の里」で休憩・雑談をさせていただいて、次に向かいました。  



●浄照寺








               浄土真宗本願寺派 松慶山 淨照寺


現地説明板より


賤ヶ岳の七本槍として功名を馳せた平野権平長泰は、田原本他六カ村の地頭となったが、

終生江戸詰めであったので、富田の真宗寺院教行寺に寺内町の経営を委託。しかし後日、

田原本に陣屋を構築した二代目長勝と、教行寺の間に軋轢を生じ、教行寺は箸尾に立ち

退いた。長勝、その跡地を二分して一宇を建立し、西本願寺の第十三世良如門主に寄進。

当初円成寺と称し、寛延二年(1749)淨照寺と改称。西本願寺別院・田原本御坊として、

県下に72カ寺の末寺や配下を持ち、門跡寺院として五本筋壁の土塀が許された。



本堂は慶安四年(1651)の創建。古風な面取り角柱・小屋組など当初材を多く残し、

内外陣境の組物・蛙股、向拝の木鼻・虹梁等美術的に優れ、江戸初期の特徴をよく表わして

おり、真宗大規模寺院の典型として、奈良県の有形文化財に指定された。

寺宝の親鸞聖人絵像及び梵鐘は、大谷本廟より拝領。本堂正面の表門は、伏見城の高麗門

を移築明治10年に明治天皇の行幸、明治23年に昭憲皇后の行啓を仰ぎ、当時ご使用の

書院が現存している。



●本誓寺









                       慈航山 本覚院 本誓寺


淨照寺と並んで建つ●本誓寺 ここでも説明板より紹介します。


当院の草創は鎌倉時代で、正和五年(1316)花園天皇の勅願所として、本覚院と号し、

もと八幡町にあった。賤ヶ岳七本槍で武名を馳せた平野権平長泰公は五千石をもって当地を

領し、教行寺退去の跡へ正保四年(1647)二代長勝公が今の位置に移して菩提寺とした。


弘化二年(1845)知思院宮尊超法親王、有栖川宮有縁の当院に本覚院の御染筆の額を賜り、

その由緒をもって慶応三年(1867)門跡格の五本筋壁を許され十ケ寺の末寺を支配した。


境内に、二代・九代領主の霊廟をはじめ由緒品がある。

寺宝には本尊阿弥陀三尊像、長谷寺観音像御衣木で作る十一面観音、三十三観音がある。




●平野廟


本誓寺表門の境内南側にある方形造本瓦葺の領主平野家霊廟。


南側(右)は二代目長勝廟=享保二年(1717)北側(左)が九代目長発の廟=安政二年(1855)。


堂宇の度重なる火災を免れ当時のままに残っているとのことです。



手前、本誓寺から淨照寺、津島神社へと続くこの通りを寺前通りといいます。


堂舎の構えが美しい門前の通りですね。




次に田原本陣屋町には●「背割水路」が今も現存しています。





田原本陣屋町・背割水路は田原本・平野藩二代藩主平野長勝が慶安元年(1648)完成の


田原本陣屋町の町割整備の時、町家の雨水、生活排水の為に「西」「中」「東」の3本の


背割水路を整備したとのことです。


それぞれ3本の背割水路は陣屋町の北境の魚町通りの北側水路に合流して西流しています。


             【田原本村絵図(江戸時代)部分】に掲載されています。





●町並み&町家


田原本町の中心部を南北に通っている「近世中街道」と呼ばれている、町並みは、袖卯建、


丸窓、虫籠窓等の意匠をこらした店舗などがあり、和洋折衷の外観が独特の雰囲気を


醸し出していました。



●鍵岡分家



鍵岡分家は天保十二年(1841)頃の建築で、薬局の名残りを留める看板とともに


風情ある町並みの一角を形成していました。


●鍵岡本家



鍵岡本家は堂々として風格ある昭和初期(昭和12年)の代表的な民家建築です。


木造二階建て入母屋造。正面に店舗を配し後方には主屋、内蔵、付属屋があります。



●田村家



建物前面道路は町内唯一「馬出し」状となり、建物がはみ出した形となっています。


東端に土間、中央に居室があり、西端が座敷。背後に多くの付属屋を持つ、明治25年


の建築となっています。



橿原市今井の寺内町でも観ましたがここでも、見通しがきかないようにT字型


屈曲させていました。




寺内町といえば、「今井町」が有名ですが、ここ田原本町にもこんなに当時の風情を


残した寺内町が存在していたとは、全然知りませんでした。


これも「大和の藩」を取り上げ、訪れたお蔭で再発見できました。やはり歴史は


息づいている。と再確認をいたしました。


「大和の藩」も残すところ、「大和郡山藩」・「高取藩」・「宇陀藩」となりましたが、


昨今の体調と相談して、「宇陀藩」にて終了といたしたいと思います。


「郡山藩」及び「高取藩」はいつかの機会に再訪したいと思っています。