昨日、今日と連続して好天で暖かく、明日ももう一日小春日和が続くそうです。


本日は、春分の日。毎年春のお墓参りにと決めています。


麗らかな、田舎の景色を見乍ら約40分のドライブで到着しました。金剛山の若緑が


一望できる高台にあり、結構な場所なのですが、毎年たどり着くのがしんどくなって


います。我々夫婦ともこのご先祖様のお墓に入ることになると思うと、感慨も一入と


いったところか(^-^)/




さて、久しぶりの大和の藩に戻ります。今回は、前回に引き続き織田家が藩祖の


私の地元である大和は桜井市の芝村藩」にやってきました。




        奈良県桜井市芝1177 桜井市立織田小学校




戒重織田家の七代藩主輔宜の時代に、戒重(桜井市戒重)から芝村に陣屋を移した。


延享二年(1745)のことである。総面積は約八haに及び、北の弁天池を防備の一郭に


撮り込み、周囲に濠と土塁をめぐらした。上街道に面した西門を入れば大手筋で他に


南と北に入り口があった。現在織田小学校前の広場、石垣、土塀の一部が、当時の


おもかげを遺している。            桜井市教育委員会





         芝村陣屋図(明治初年) 大三輪町史(現桜井市史)による。


陣屋北西部の「弁天池」は現在埋め立てられてありませんでした。


北側中央部に陣屋がり(現織田小学校)手前武家屋敷と濠があった。


濠は現在も残っておりました。



それでは、昭和43年調査時の写真と現在を比べてみましょう。



           昭和43年撮影時の芝村陣屋遺構


陣屋主郭部正面入り口から左の方(西)へ続く旧藩邸の石垣である。


四周いずれも同じ高さの石垣で、この上に正面入り口右側同様の塀があったらしい。



現在の西南角部分から右へ陣屋正面を望む。ほぼ遺構の原形は認められる




                    陣屋主郭東南角附近



陣屋主郭部正面入り口右側につけられた曲折部分はいわゆる「横矢」として、


入り口に対する監視と側防をかねたものと思われる。塀の他の部分に狭間(銃眼)が


開かれていたかどうかは定かでないとのことである。



現在の東南部にあたるところです。


石垣も、その上の土塀も綺麗に修理されており、往時を偲べることはないが、


遺構の原形は留めておりました。



陣屋正面入り口(織田小学校正門前)から西の石垣をみたところ。




陣屋正面、道路を隔てた向かい側に、最初に掲載した明治初年の図に「学校」と


書かれた藩校の長屋門である。




今も、その名残がのこっています。




正面に見える織田小学校(芝村陣屋跡)から手前80m(南側)に濠が残っています。





さて、ここで織田家芝村藩史について触れておこうとおもいます。



藩史


織田信長の末弟・織田長益(有楽斎)は、本能寺変後、尾張に逃れ天正十三年には秀吉に

従い摂津で二千余石を食んでいた。のと、関ヶ原戦で東軍につき、その時の功により、

大和で二万七千石を加え都合三万石を与えられた。


しかるに大坂冬の陣では逆に大坂方の謀主におされたが、東西の和なるや、この行動は

徳川方のため、城内偵察を兼ね大坂城へ入ったと弁明し、夏の陣でも豊臣方にはつかず、

領邑大和へも入らず京都に閑居して施政を代官に委ねたまま利休門下の一弟子として

茶道三昧にふけり、高級遊人と化して一万石を自分の隠居料に、残りの一万石ずつを

四男・長政の系統が芝村藩、五男・尚長の系統が柳本藩としてそれぞれ存続することに

なった。、


歴代藩主


1・織田長政(ながまさ) 元和元年(1615)-万治2年(1659) 隠居


2・    長定(ながさだ) 万治2年(1615)-寛文12年(1672) 死去


3・    長明(ながあきら)寛文12年(1672)-天和3年(1683) 隠居


4・    長清(ながずみ) 天和3年(1683)-正徳4年(1714) 隠居


5・    長広(ながひろ) 正徳4年(1714)-正徳4年(1714)7月 死去


6・    長亮(ながあき) 正徳4年(1714)-享保18年(1733) 死去


7・    輔宜(すけよし) 享保18年(1733)-安永7年(1778) 隠居


8・    長教(ながのり) 安永7年(1778)-寛政7年(1795)  隠居


9・    長宇(ながのき) 寛政7年(1796)-文政9年(1826) 隠居


10・   長恭(ながやす) 文政9年(1826)-嘉永5年(1852) 隠居


11・   長易(ながやす) 嘉永5年(1852)-明治4年(1871) 免官


※ 四代長清は陣屋を戒重(桜井市戒重)から岩田に移そうと願い出て、認められた

  ものの、財政悪化が表面化して、実現しなかった。

 

  正徳3年、岩田村を芝村に改めたのち、実際に陣屋が芝村(現在の織田小学校)

  に移転したのは、第7代藩主・織田輔宜の代で、移転にこだわったのは、戒重が

  年貢収納に不便な土地だったのに対し、芝村(岩田村)が藩領の中心地で何かと

  便利だったようである。


                          桜井市戒重  春日神社


その戒重陣屋があったところが「春日神社」一帯なのですが、遺構が全く残されておらず、


おもかげを探すに至りませんでした。


※ また、西阿が1341年に開住城を築いたところで、楠木正成亡き後の南朝を守る

  基地であったところでもある。


  さらには、訳語田幸玉宮跡伝承地(おさださきたまのみやでんしょうち)といわれ、

  敏達天皇の都であったところです。敏達天皇は欽明天皇の第二子で、仏教をめぐって

  物部と蘇我が争っていた時代である。


  宮はこの後、悲劇の英雄、大津皇子の邸宅となり、皇子はここで死を賜っています。

  



最後は織田家の菩提寺「慶田寺」に行ってみましょう。



桜井市芝 曹洞宗「慶田寺(けいでんじ)」 禅宗寺院で、織田家の菩提寺として

知られています。





この山門が元陣屋南門の遺構で乗馬のまま通過できる高さとされていました。


勿論、屋根瓦には織田家の定紋が遣われています。


山門から本堂が一望です。


本来、このお寺は涼やかな表情の十一面観音像で知られているお寺でもあります。



写真は借り物です。阿弥陀如来坐像を中心に達磨像なども祀られています。



本日は、織田家の遺構やお墓を取材にまいりましたので、別の機会にゆっくりと

拝観したいと思います。



ということで、境内にある大きな墓地を訪れました。


                      芝村藩主織田氏歴代墓地


綺麗に整備された墓地に織田家藩祖有楽斎を中心に織田芝村藩の歴代藩主たちの


墓を観て、在りし日の芝村陣屋の繁栄が思い偲ばれました。