大和の藩、「櫛羅藩」


新庄藩「桑山氏」が改易になり後を永井氏が継いだことは先に述べました。改めて、

永井氏」の略系図を書いておこう。


永井氏 譜代-1万石

新庄藩

(1)直円(なおみつ) 

 延宝8年(1680)-宝永7年(1710) 

(2)直亮(なおすけ) 大坂定番

宝永7年(1710)-元文2年(1737)

(3)直国(なおくに) 大番頭

元文2年(1737)-明和2年(1765)

(4)直温(なおあつ) 大坂定番

明和2年(1765)-寛政7年(1795)

(5)直方(なおかた) 大番頭

寛政7年(1795)-文政8年(1825) 

(6)直養(なおのぶ) 大番頭

文政8年(1825)-嘉永3年(1850)

(7)直幹(なおもと) 日光祭祀奉行

嘉永3年(1850)-文久3年(1863)

 

櫛羅藩

(8)直荘(なおたか) 

文久3年(1863)-慶応元年(1865)

           8/19死去

(9)直哉(なおちか) 

慶応元年(1866)-明治4年7月14日

            藩知事免官


※大和新庄藩の第8代藩主永井直荘は陣屋を櫛羅に移したことから櫛羅藩を立藩した。

櫛羅は藩領の中でも特に栄えていたことと、しかも要害の地でもあったことが理由と

されている。

 

さて、この櫛羅藩の存在は解りましたが、それでは、いったいその「陣屋」は何処に

あったのでしょう。が今回のテ-マです。

 

                兄川筋水利絵図 林堂実行組合蔵

 

 

今回も旧新庄町歴史民俗資料館発行の「描かれた町と村」から参照。

 

兄川筋水利絵図を見ますと櫛羅陣屋(赤丸囲いの下部分には石垣・門・堀・柵などが

見えます。

更に、図書館で見つけた関西城郭研究会発行の「大和の近世城郭と陣屋写真集」

櫛羅陣営平面図

「奈良県南葛城郡史」「櫛羅陣営平面図」をはじめ三葉の図と説明文があります。

大正村大字櫛羅陣営南山

 

同郡史によると櫛羅北方字井戸垣内より小林に至る道路の左方に塹壕あり、其上方一

平地をなし其面積約一千坪あり其辺一帯築山と称し村民は築山殿の居城のあとなりと

称す。倶尸羅氏の居城は蓋し此の地なるべし。永井氏の陣屋址は岸野山にあり。と

記載しています。

 

 

では、「岸野山」は何処?図面によると現在の「櫛羅」から葛城山の麓という漠然とした

感じでは?ということで、取り敢えずは櫛羅陣屋にかかわる遺構を訪問することにしま

した。

 

先ずは、「九品寺」

九品寺  奈良県御所市楢原1188

 

 

九品寺(くほんじ)を開いたのは奈良時代の僧、行基です。行基は聖武天皇のとき、

奈良東大寺の大仏造営にかかわった僧で、生涯民衆救済のため布教活動を続け、

大仏建立の功績によって、日本で最初に大僧正になっています。

 

九品寺は布教でいう上品・中品・下品で、人間の品格をあらわし、それぞれに上・中・

があり、全部で九つの品があるので九品と名づけられています。

 

本尊は木造阿弥陀如来像で、国の重要文化財に指定されており、他にも千体石仏

番水の時計など見所の多いお寺ですが、今日の所は訪問目的が異なるため次回にでも

ゆっくりレポ-トしたいものです。

と、いうことで本日、訪れた目的は、本堂の左にある遺構を観るためです。

櫛羅陣屋の御殿玄関がここ九品寺に移築されています。

 

 

九品寺から大和三山を望む景色など絶景です。今回、結果的に「岸野山」にあるという

櫛羅藩陣屋址に辿りつけませんでしたので、この九品寺とあわせて再訪する予定です。

 

もう一つの櫛羅陣屋の遺構がある、聚落内の造酒業久保氏邸を訪ねました。

奈良県御所市櫛羅 地酒・酒蔵

千代酒造株式会社 久保氏邸

櫛羅陣屋の南門がこちら久保邸の表門に移設されています。

には永井氏の家紋がつかわれており施設の一つであったことの証となっています。

 

更に、後でわかったことなのですが、実はもう一つ遺構があります。

 

 

櫛羅陣屋の東門が、現棚田氏邸の門で、邸内にはもと陣屋の殿舎といわれる建造物

があるというのである。今回は、知らぬことゆえ訪ねることが出来ませんでした。

 

近いうちに再度、「九品寺」・「岸野山」・「棚田家」・「葛城歴史博物館」そして、歴史的に

魅力ある「名柄街道」の古民家も含めて訪れるつもりです。