2014年4月23日(水)快晴

 

天誅組史跡巡り。

本日は桜井市倉橋にある「楠目清馬」のお墓に参りました。

 

地元桜井市発行(平成8年10月)の『桜井風土記』では次のように紹介されています。

倉橋天誅組志士雀墓(すずめばか)


バス停の倉橋池口からやや上がった右手にみどり荘(現在休館)というのがある。

この前の道の向かい側、北へ登り口左傍に「楠目君清馬墓在上此三丁許」との石標が建っています。

 覆い茂る草に隠れて発見しにくかったので少々掻き分けて石標と字体が何とか見える程度にはいたしました。

 

ここから登ること約一キロの地、右側の雑木林の東端に「楠目清馬之墓」と刻む等身大の墓石が目につく。裏面には「文久三癸亥九月二十六日歿」「於十市郡下居(おりい)」としるす。

 

楠目清馬は天誅組の志士の一人で土佐藩士であった。吉村寅太郎とともに脱藩して大和義挙に参加していたのである。東吉野村鷲家にて藤堂藩士におそわれ、ここで割腹自殺した。

墓地は崇峻天皇の御陵参考地で、宮内省の管理地となっている。

歿後の二十三回忌に当たる明治二十九年(1896)に建立をみたという(原文まま)


舟久保藍氏「実録天誅組の変」

森下儀之助、土居佐之助、安岡斧太郎、楠目清馬は二十八日、多武峯付近で津藩兵に

発見され、津藩領下居村で森下、土居、安岡は捕縛、楠目は討たれたとあり墓に刻まれた日時には二日の差異が見られます。

(慈恩寺共同墓地にある前田、関、両名の日時も同様)※お墓に記されている日付は

正確を期したものではないと考えられる。

お線香立ても風化していた所為か触った途端、割れてしまい仕方なくお線香を横に置き・・・神妙にご冥福をお祈りしました。次は線香立てを持参します。

 

次はここからすぐ近くにある「談山神社」を訪れました。


紅葉で有名な談山神社ですが、実は桜の名所でもあります。この時期、既に桜は終っていますが初夏の風情とともに新緑の季節を迎え、快晴も相まってそれは美しく映えていました。


例によってアポイントもとらず長岡宮司さんにお目にかかり、いろいろ楽しく懇談を

いただきました。 先の楠目清馬や休息した辰巳家のお話し、更にはご出身の阿波と淡路の関係(古東領左衛門や福浦元吉など)などそれに歌人でもあられる宮司さんは特に保田與重郎(桜井が生んだ偉人)がらみで伴林光平を大変評価されています。


天誅組に造詣の深い長岡宮司さんにYSBでの講師の内諾をいただきました。

(7~8月ぐらいに出来たら・・・)

そして、本殿の中に常設展示されています楠目清馬所用の鎖頭巾を拝見しました。

★楠目清馬所用鎖網頭巾 一頭 原文のまま紹介します。

 

平成二十年秋は、日本近代の夜明けのさきがけとなった天誅組義挙から145年を迎えその節目の年を記念し、初めて公開された遺品。

 

楠目清馬は土佐藩出身。天誅組では砲一番組長として参加。文久三年(1863)九月二十四日、吉野鷲家口の戦いに敗れ多武峰の針道・辰巳家にて一夜の宿を借りる。

 

辰巳家の伝承では刀傷を負っていたという。今回の遺品は清馬が辰巳家に残したもので、当家では長く秘蔵されていたがこの度当社に寄贈された。

 

清馬は針道から倉橋に出たところで、藩兵に発見され自刃した。享年二十二歳。

若く歿しているので、彼の存在を示すものはこの頭巾だけであり、天誅組の研究の上でも貴重である。

明治二十九年四月、維新後に栄進した同郷の同志・土方久元(宮内大臣~伯爵)は当地を訪れ談山神社の氏子地区・倉橋の墓を修理した。それが現在の通称「すずめ墓」と呼ばれている清馬の墓である。

 

昼食は長谷寺参道にあるお店で「にゅうめん+たけのこご飯」のセットをいただきました。勿論美味しかったですよ♪(^-^)/

 

伴林光平、平岡鳩平一行は駒塚に逃れる際、ここ長谷寺には神道のため手を合わせることなく参道の「胡麻屋」という旅亭で昼食を摂っているが、折角ですので十一面観音様を拝することにしました。

 

「いくたびも参る心ははつせ寺山も誓も深き谷川」

 

西国八番の札所として栄えた長谷寺は古来民衆の心に根強く生き続けている。そうして長谷寺の信仰史はそのまま日本の精神史研究に示唆するところ大なりといわれ

ている。

「仁王門」

長谷寺の総門で現在の建物は明治27年(1894)の再建。「長谷寺」額字は後陽成天皇の御宸筆

 

本殿に向けての有名な登廊。歳をとるにつれこの階段がキツイ。辛い~(>_<)

国宝本堂

徳川三代将軍家光公の寄進によって慶安三年(1650)に建立。

入母屋造の正堂と礼堂からなる双堂形式で前面に懸造りの舞台が付く大建造物です。

この舞台からの景色はまさに絶景ですよ!!

本堂の右奥には滝蔵三社権現があり、この裏辺りで二十七日河内勢の秦将蔵が彦根藩兵に射殺されたという。

 

ただし、長谷寺の少し奥のところ、旧上之郷村へ山峡の道を初瀬川に沿うて数キロ入ったところに滝倉(たきのくら)のバス停がある。左は小夫、右は滝倉への入り口であり、一キロ登りつめた地に滝倉神社がある(滝蔵とも書く)

 

ここにいわゆる三社権現で滝倉明神とも滝倉権現とも言われてきた立派な社殿がある。ここは世にいう長谷寺の奥の院で古来信仰の深かった神社であり、もしかするとこの場所が秦将蔵の撃たれた場所では?私にはそういう気がしてならない・・・・

一度この滝倉神社を訪れてみたいと思っています。

 

 

この後、伴林光平一行が長谷~三輪に向かう途中この初瀬参道にて昼食を摂ったという旅亭「胡麻屋」

この胡麻屋前を散策し、黒崎の女夫饅頭を復活したお店「やまとびとこころ店」

まんじゅう+抹茶セット(945円)を満喫し次の訪問地である慈恩寺の前田繁馬・

関為之進の墓所に向かいました。