2013年12月23日(月)
比較的暖かな好天の中、今年最後の「天誅組」をしてきました。
訪問先は御礼の挨拶を兼ね、五條長屋門を訪れ舟久保先生、内倉幹事長、岡 事務局長
のお三方にお会いしました。差し入れにと持参した、パンとコ-ヒ-で茶話会となり、楽しく
今年一年を振り返っての話に華が咲きました。
この後、今日の訪問の本来の目的である五條博物館での展示物「虎太郎の刀」と
「虎太郎血染めの肌襦袢」を真近に見せてもらうことで舟久保先生と内倉幹事長に特別
案内をしていただきました。
★先ずは「虎太郎佩用の刀」
説明板によると、吉村虎太郎が佩用していたとされるこの刀は橿原神宮の
「貴重品台帳」によると宇智郡滝村(現在の五條市滝町)在住の佐竹三郎氏が、
大正10年(1921)から昭和2年(1927)の間に橿原神宮に奉納したとある。
佐竹家への伝来の経緯は不詳。
「貴重品台帳」には作者傳来として、
朱鞘 身長 弐尺七寸二分
伹銘 肥前國住人忠吉(ただよし)作
天誅組 吉村寅太郎佩用
佐竹三郎献納と記されている。
「肥前國住人忠吉作」は、江戸時代から明治時代初めまで肥前国(現在の佐賀県)で
刀鍛冶を生業とした忠吉一門の銘で、八代忠吉(1801-1859)、または九代忠吉
(1832-1880)の時期の作と見られる。
※この刀を見ての率直な感想は、見てのとおり本当に長い業物で、まるで佐々木小次郎
の長刀では?小柄な寅太郎が果たしてこの刀を操れるのだろうか?
本当に寅太郎の佩刀なの?・・でした。
仲間のTさんの発想が面白い!! この刀の刃こぼれを見て、虎太郎が唯一、斬り合った
相手の高取藩の「浦野七兵衛」の刀を合わせ、刃こぼれが一致すればホンモノでは?
(なかなかオモシロイ)謎も多いね!
次にこれで三度目の拝観となります
ガラス越しでなく、こんなに真近にて見せていただいたのは初めてで袖なしの下着と
でもいうのでしょうか。弾痕跡?血染めの跡など、生々しく重坂の西尾家に担ぎこまれ
た時の虎太郎が蘇ってくるような錯覚さえ覚えました。
そして今回は、特別の許しを得て、博物館の別室に保管してある奇跡的に帰ってきたと
いう、賀名生堀家から五條博物館に寄贈されました、★【姓名録】ほかを拝観させて
いただきました。木箱の中に手紙(メモのような)のような文書も入っていました。
酒井伝次郎から藤本真金老兄、松本謙三郎先生に宛てた書状。
賀名生堀家へ立ち寄り、ここは後醍醐天皇、後村上天皇の皇居となったところで
実に感じ入った。・・・云々。
少しだけこの和紙に触れさせていただきました。 またもや、鳥肌!!
そして、特別に撮影許可をいただき、ブログ掲載の許しもいただきました。
鶴田陶司から中垣健太郎、小河(小川)佐吉に宛てた手紙です。
五條にまだ残っている後続隊に対して、早く天ノ川辻へ引き上げてくるよう要請したもの
・・・との内容らしいです。
いよいよ【来賓姓名録】です。
最初の頁は、安政六巳末暮からの来賓姓名録となっています。
ひときわ大きな字で芸州田中軍太郎正雄とありますが、いつも不思議に思っているので
すが、この人が何故ここに天誅組隊士とともに記帳されているのでしょうか?
「生野史」の著者である故太田虎一氏の【生野義挙日記】によると、「田中軍太郎」
(芸州)は生野義挙に参加しており、文久三年9月27日天誅組総裁吉村虎太郎
(26)が自害した日の同日、武器弾薬調達のため、進藤俊三郎とともに上洛している
のです。不思議ですね~
勿論、この来賓姓名録は天誅組志士だけのものではないのですが、それなら何故、
天誅組参加の志士たちの所に記載されているのだろうか?
たまたま、同日堀家に立ち寄ったときに、天誅組隊士たちと意気投合し、一緒の頁に
姓名を記載したのであろうか?ご存知の方、お教えください。
元治二年にはあの「田中光顕」とともに十津川に潜んでいた 土佐、那須盛磨の名前も
見えます。
そのほか天狗党追討日記や殉難録稿など非常に興味深い文書も入っていました。
更には、賀名生古行宮建物及附近平面略図(200分の1)など、本当に凄い史料が一杯
でした。まさに、今年最後を飾るにふさわしい宝物を見せていただきました。