多くの探求者は、苦しみから逃れて平安に過ごしたいというのが、探求の動機の大半だろう。
それでいいと思う。
そのためには、何も、悟りを開いたり、非二元の解放に至る必要もない。
それは、何かを成し遂げることでもないし、どこかの境地に達することでもないから。
いまのまま、そのまま、「なんだこのままで良かったんだ!」ということを受け入れれば、人生をより良くする必要もなくなる。
「より良くしよう」というのは、そうでない場合との比較で成り立つけど、そんな比較はナンセンスだし、その両者を測る正しいモノサシもない。
今のそのまんまのことが、そうでないことはあり得ないのだから、今とは違うどこかを設定して、その違いを嘆く必要もい。
ゴールだと思っていたところは、実は出発点と同じなのだから。
1ミリも動く必要はなかったんだ。
また、どこかの覚者や非二元のティーチャーさんと、同じ状態になったり、同じ体感を得たり、同じ境地に達する必要もない。
「私はいない」「行為主体はない」「個人も誰もいない」「だれも何もしていないし、何も起こっていない」
といったメッセージを聞いたときに、「自分はそういう体感を得ていないので、まだまだダメだ」という思い込みに捕らわれがちだが、それが、そもそもの勘違いなのだ。
誰かと同じ「体験」や「状態」や「体感」を、ゴールや達成条件に設定することこそ、思い違いや迷いの原因になってしまう。
すでに山頂に立っているのに、「あっちに見える山こそ、本当の山頂だ」と思えてしまうから、わざわざ、そこへの努力や修行の道のりを歩こうとしてしまう。
つまり、「どこかのゴールに向けて、意味のある道を歩いている」という実感を求めてしまう。
でも実際は、どこかへ行く必要もないし、何かを目指す必要もなかったことに、気づくだけでいいのだ。
そのためには、「あれ?このままでも、いいんじゃいか!」と、現状を捉えなおすだけでいい。必要なものは、すでに備わっているんだから。