精神世界の探求をする第一の動機は、「悩み苦しみの解消」だと思います。

それが第一なんです。

それを解決しないメッセージは、絵にかいた餅であり、実はどうでもいいメッセージです。

「悩み苦しみの解消」を得るためには、非二元でよく言うような、「私はいない」だとか「行為者はいない」だとか「物事は勝手に起こる」といった体感・体現・体験は、どれも必須ではないんですよ。

悩み苦しみの正体を暴く、これだけでヒントは得られます。

悩み苦しみを解消するために、スピで言われているような、アセンションを実現するとか、非二元で言われるような「個人の不存在」というようなことは、必須ではないということです。

悩み苦しみの元凶は、事実でない仮定や架空のことを取り上げて、あれこれ物語(ストーリー)を、でっち挙げちゃうことにあります。

「あの人がこういうことをした理由は何か」とか、「これがこうなったら困るだろう」だとか、いずれも、現に今のことではない、架空の仮定の物事を、アレコレと考える、そのことが悩み苦しみの正体です。

こういうことにつていては、本当の実際の事実は、知りようがないんです。

このことを見抜けば、大抵の悩み苦しみは消散します。

お腹が痛ければ、ただ「お腹が痛い、困ったもんだ、まあいいか!」なんですよ。

これは胃癌じゃないかとか、何か重病の予兆じゃないかとか、そういうものは、付たされた思考の産物です。

まあ、本当に重病の予兆であった場合もあるので、この辺は、人生の機微であると思います。

ただ、我々は、心配事や予測に関して、悪い方のことを想定しがちだということは、言えると思います。

心配事の9割は起こらない、という本もありますね。

話を元に戻せば、我々の探求の大元は、悩み苦しみの解消であり、それに繋がらない言説や教理は、たいして意味はないんです。

悩み苦しみさえ解消できれば、その他のこと、宇宙がどのように成り立っているかとか、私という存在はどんなものなのか、などという形而上学的な命題は、どうでもいいんですよ。

 

仏教では「毒矢のたとえ」ですよね。

 

だから、悩み苦しみを解消するためには、「私がいない」を実現する必要もなければ、「私は誰か?」の答えを得る必要もないんです。

最後になりますが、悩み苦しみを解消するためには、悩み苦しみの内容(どんな思考が湧いているか)を見極めて、現に起こっていないことを、あれこれこねくりまわしていないか、そこに注意を向けるだけでいいと思います。