大乗仏教の言葉に、「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」というものがある。

「煩悩(苦悩や迷い)は、菩提(悟りや平安)と、違うものではない」という意味だ。

なんで煩悩と菩提が違わないのか、まったく正反対のものではないか。

この意味が、なかなか解けなかった。

最近、その解釈のひとつを思いついたので、述べてみたい。

煩悩と菩提を、光と影に例えてみる。

光=菩提(悟りや平安)
影=煩悩(苦悩や迷い)

光なくして影はない。

影は、光があるからこそ現れるものである。

影だけが独立して存在している訳ではない。

影は、光の本体の作用から現れるので、影も、光とは違うものではない。

では、影(煩悩)の正体ともいえる「光をさえぎるもの」とは、何か。

それは、妄想(もうぞう)や戯論(けろん)である。

妄想(もうぞう)とは、現に起きていないことに考えを塗り重ねること。

戯論(けろん)とは、追究しても益のないことに考えを塗り重ねること。

どちらも、頭の中で展開される物語(架空のストーリー)という意味で同じことだ。

具体的に言えば、仮定・想定・憶測・推測・予断・先入観などによる思考の塗り重ねは、たいていは煩悩(妄想や戯論)である。

「もしコレがこうなったらどうしよう」とか「あの時にああしていればこうなったのに」とか、「あの人のその態度は、こういう理由からだろうか」といった、実証されない・知り得ないことを探索する思考の連鎖も、煩悩(妄想や戯論)の典型である。

この「光をさえぎるもの」(妄想や戯論)によって、影(煩悩)は現れるのであるが、どちらも根拠のハッキリしない、虚妄の幻のようなものである。

人々の煩悩(苦悩や迷い)の正体は、このように、ありもしない仮定や憶測の上に成り立つ、幻なのである。

本当は光(菩提)しかないし、影(煩悩)は、光の本体から生じる一つの半面的な作用である。

影(煩悩)も、光(菩提)から生じるのだから、つまり「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」と言えるだろう。

真に実在するのは光(菩提)だけであり、すべてのこの世界に遍満している。

「苦しみはナチュラルではない」というのは、こういう意味であろう。

「すべて愛の中にある」というのも、同じことを言っていると思う。

こうして非二元でよく言われる言葉に帰結させる当たり、秀峰の思想の癖が見て取れますなぁ。