「悟り」や「目覚め」を獲得するために瞑想をその手段とすることは、大きな勘違いのひとつである。瞑想を積み重ねたからといって、「悟り」や「目覚め」に至るわけではない。禅でも、「悟り」を目指してその手段として行う坐禅は、「待悟禅」といって嫌われる。

神秘体験などを目的とする瞑想は横道に逸れやすい。また実際に神秘体験をしてしまうと、「こんな凄い境地に至った自分は特別なのだ」という自我の肥大を招いたり、更なる神秘体験を渇望して中毒状態に陥ることも多々ある。「今日はとても深い瞑想状態に入れた」などと評価するのも、瞑想の嗜好的な要素を強める。

独学で瞑想を続けるのには危険が伴う。瞑想により、まれに、精神疾患症状などが現れることもある。それは、「魔境」とか「禅病」とか呼ばれ、古来から知られている。瞑想をする場合は、しっかりした指導者の下で行うとか、医師に相談することが奨められる。

瞑想が、嗜好品的な依存対象に陥っている例もあるかと思う。そういう人は、やたらと瞑想を人に勧める。そして金銭を授受して「瞑想会」を開いたり「マントラ伝授」などの霊感的商法を行う人もいる。こういう「瞑想商法」には、十分に気を付けたい。