10世紀頃の中国で書かれた禅語を紹介します。

 

『無門関(むもんかん)』の中で、雲門文偃(うんもんぶんえん)が修行僧から「仏とは何か」と尋ねられて、「乾屎橛(かんしけつ)」と答えたというのです。

 

それは、日本語に直せば「糞かきべら」、つまり、排便の後でお尻を拭く小さな木片で、いわばトイレットペーバーです。

例え「仏」といえども、「糞かきべら」と変わりがない、つまり、浄不浄や優劣、貴賎等の区別を認めない姿勢です。

「糞かきべら」は、お尻の選り好みもせず、お尻を拭く仕事を黙々とこなす。この「乾屎橛(かんしけつ)」は、「仏」と同等と言えるのです。

■白隠禅師 坐禅和讃■

衆生本来仏なり  水と氷のごとくにて
水を離れて氷なく  衆生の外に仏なし

当所(とうじょ)即ち蓮華国  此身即ち仏なり

ここにあるように、一般ピープルは、もともと、仏(悟った人)なのです。
この場所がそのまんまユートピアであり、この身がそのまんま仏ということです。

だから、今の自分とは違う悟りの境涯を求めてあくせく修行などを積むことは、魚が水を求めて泳ぎ回っていたり、鳥が空気を求めて飛び回っていることと同じだとも言われます。この例えはわかりやすいですね。

ただ、「衆生本来仏なり」の「本来」が重要です。禅語の「本来の面目」というやつです。「本来」に立ち返るには、やはり何かの修行めいたものが必要なのが、逆説的です。

それは、不必要に身に着けたものを、引きはがす過程です。何かを積み上げるのではなく、不必要なものを減らしていくことです。具体的には、あらゆる思い込み・既成概念を除く、つまりは妄想から離れることです。

妄想さえ無くせば、ここはそのままパラダイスです。

 

このことを禅語では、「莫妄想(まくもうぞう)」~妄想するなかれ~と言います。