よくね、精神世界の探求においては、悟りや目覚めに至るには、知識の蓄積だけではダメだとか、知的に理解できるものではない、とか、思考を排除しなきゃダメだとか、情報ばかりを集めてもしょうがない、なんて言われますよね。
これ、ぜんぶウソです。「至る」ものではない、という話も加味した上です。
知識や思考や情報や知的な理解も、それなりに大切です。
だいたい、それらがなければ、ティーチャーさん達だって、営業が成り立たなくなります。
ただじっと佇んでいるだけでは、クライントやイベントは、やって来ませんから。
悟りや目覚めについて言えば、「必要なものも邪魔なものもない」、ということです。
迷い(煩悩)だって、それがあるならば、その瞬間の真実であり、その時に苦しいのなら、その苦しみがその時の真実です。
「苦しい~!」に成りきることで、苦しみが解消されたりしますしね。
悟りや目覚めに至る、これといったメソッドもないのですから、アレコレ探求は続きます。
探求をしていけば、知識も情報も増えます。
自然に増えるんだから、それがイケナイと言われても、しょうがありません。
ただ、それらの多くは誤解や思い込みを生みがちです。
その誤解により、真実を垣間見る瞬間を逃しがちになります。
その点さえ気を付ければ、知識や情報を得ることも、思考による理解を得ることも、必ずしも、探求の妨げになるものでもありません。
今までの探求は、無駄な活動ではなく、必ずや肥やしになるものです。
特に、後にティーチャーとして活動するときには、探求時代のアレコレが、メッセージに厚みを与えることになり、優良なコンテンツ提供になります。
もし、悟りや目覚め体験に至った場合でも、そのあとに探求は続きます。ゴールはありません。
この世に、万人に共通の、唯一無二の絶対的な真理など、ないのですから。
だから、そこに至っただの、悟りを開いてブッダになった、だの、言っている人がいたら、それは勘違いです。
自分は見抜いたとか、何かの状態に至った、また、こういうものの主体がなかった、という感触、そのどれもが、ただの体験に過ぎません。
だから、人生の最終的な答えを得た人は誰もいません。
そういうことは、わざと、わからなくなっているからです。
だから、「う~ん、やっぱわからん~!」というのが、正直な態度だと思います。