よく喧伝されるような「何を見ても私に見える」「宇宙全体が私だと思える」と感じるワンネス体験や、「私がいない」「個人はいない」「誰もいない」といった非二元的な神秘体験はないんだけど、数年前、夜のウォーキング中に、いきなり強烈な気づきに、深く納得してしまったことがある。

 

それは、

①人はみな平等である、いや、動物やら何をかも含めて、すべての存在は平等である。

②あやゆるものは、ありのままで、その在り方で何の問題もない。

③「較べること」が苦悩の根源で、本来、較べられるものなどない。

 

①③は、ある状態の存在の、価値や意味を「較べる」ことのバカらしさを痛烈に感じた。

②は、法華経にある「諸法実相」を私なりに得心する言い方だ。

 

較べることをやめたら、急に、生きるのが楽になった。

同級生が官僚として出世しても、「あれはあれでいいのだ」そして「私が私であることと、少しも違いはないのだ」

 

「あれのあれのあり方と、オレのオレの在り方と、較べることはできないし、ましてや、価値の大小や、それが意味するものなど何もない」こんな風に思えた。

 

私は劇的な一瞥体験ではなく、こういった日常の気づきの積み重ねの方が性に合っているんだと思う。

 

あ、もう一つ気づき体験があった。それは車を運転しているときに、自分の直前で信号機が赤になり、停止せらざるをえなくなった。

 

こいう時、いつもなら、「あー、ツイてないなー、信号が青になるまで、退屈だなー」とウンザリしたものだ。

でもその時は違った、「あー、いま停車した自分は、存在として“在る”だけでいいんだー、存在として“在る”を感じられた自分は、なんて幸せなんだろう」

 

これが、アドヴァイタでいう「サット(存在)、チット(意識)、アーナンダ(至福)」をチラ見した体験なのかと思った。あの“至福感”は、ほんとうに何とも言えない安心感みたいなものだった。

 

だから、“爆破的な体験”を心待ちにする必要はない。日々のちょっとした気づきでも、着実に積み重ねて進歩していると思っていいと考える。ニサルガダッタ・マハラジも、同じことを言っている。真剣で強烈な意思を持ちつつ、平凡な日常を嫌わないことが肝要かと思える。