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4月18日は母の命日でした。
去年13回忌があったので、今年で母が亡くなって丸12年。早いなぁ…。毎年この時期は幽霊でいいから会えないかなと目を細め、霊感的なスイッチよ、入れ…!と神経を集中させてみたりするが、私にとって霊感とは株と同じ位縁がないので毎年願い叶わず…。
 孫もこの12年の間に9人に。母に会わせてあげることが出来なかったのが、本当に悔しいけれど、空から私達の信じられないくらいのドタバタ子育てをヒヤヒヤしながら見守っていてくれていると思います。
 なにせこの個性豊かな兄妹4人とそのボス、自由人父、幸男を育て上げた母。
私なんて2人でこの騒ぎだもの…その倍なんて、更にそこに暴れん坊の自由人が+されるなんて…想像しただけでカロリー消費が凄いです…。
 母という人はとにかく辛抱強い人。冷たい日本海の荒波もどんな船だろうが持ち前のガッツで笑いながら渡って行くような人でした。

 そんな母は15歳で集団就職のため新潟の守門村から上京し、そこから10年、今じゃ即アウトー!!なとても考えられないほどの劣悪な環境で働いていたそうです。どの職場に行っても至極の意地悪ババアオールスターが揃いも揃っていて、あらん限りの嫌がらせをしてきたらしい…。
 そして、一番楽しかったという銀座アスター勤務中、父と出会い、押しに押されて結婚。それから4人の可愛くも破壊力抜群のモンスター達に恵まれ、時々阿修羅化しながらも、何不自由なく私達を育ててくれた母。父の目を見張る程のやんちゃ振りも加わって、本当にめまぐるしい日々だったと思うが、「私はとても幸せ者だ」といつも言っていた母。
途中出てくるぶっ飛んだ苦労話も母は鉄板ネタにして笑いを取りにかかる。母曰く「なんでも最後に笑ったもん勝ち。」なのだそうだ。
そんな母が12年前癌にかかった。あんなにショックを受けた母は初めてだった。それから何日間だったろう、母は泣き、私達も泣いた。しかし、気が付くと母はもう笑っていて、抗がん剤の副作用で髪が抜け落ち坊主にした頭を撫でながら、「シャンプー楽でいいわぁ~。」とニコニコしながら私達に話した。
私達は母の大好物の「たこ焼き」を引っさげてはほぼ毎日病室を訪れ、朝から消灯まで何時間もずっと話をしていた。検査も副作用も相当辛かったと思うのに、母はやっぱりよく笑っていた。甘えるばかりで大した親孝行も出来ていない私達に「お前たちがいてくれてよかった。」といつも笑顔の母もその時ばかりは涙ぐんで言ってくれた。
それから母は余命3ヶ月と言われていたところを、1年半、精一杯生きてくれた。
そんな母のDNAが私にも流れているということが、私の誇りだ。

最後に本当ーに余談だが、母の告別式の時、長女の私が兄妹を代表して母に別れの手紙を読むことになった。手紙は思っていた以上に涙でうまく読むことが出来なかったが、何とか最後まで読み終わり、「長女由美子。次女Mみ、三女K子。」そして「長男ヒロユキ。」と最後は長男の名前で締めた。すると突然、近くに座っていた兄が急にガタンッと立ち上がったかと思うと、こう叫んだ。

「ちょ…!俺の名前はユキヒロだろっ…!!」

ポカーンな私。そんなん、兄貴の名前くらい知ってるがな。ユキヒロでしょう…?ユキ…あれ…?あたし、さっきなんて言った?ヒロユキ?え?なんでヒロユキ?おっかしいなぁ….手紙にはちゃんと「ユキヒロ」って書いてあんのに……?

「お母さん!ごめん!!ユキヒロだよね!!なんか、ごめん!!長男ユキヒロ。です!!」と母の霊前で謝り倒す私に「由美子・・あんたね・・。」と苦笑いする母の声が聞こえた気がした。会場は緊張の糸を無理やりぶち切られた為か、参列者達の堪える笑い声で埋め尽くされてしまった…。

お母さん……本当にごめんー…!!

その後の御斎の席でお酌をしながら謝罪行脚する私に親戚中から「いやぁ、湿っぽいより、最期ほのぼのと終わってよかったよ。お母さんもきっと笑ってるよ(笑)」等数々のフォローを頂き恐縮この上なかったです…。

そんなことを思い出しながら、今年はコロナでお墓参りに行けなかった代わりにビデオ通話で父と思い出を語った。

「かぁちゃんはよぉ、洒落ててよぉ、綺麗だったよなぁ。父ちゃんはよぉ、もう、直ぐにロックオン♪よく家まで車で迎えに行ったんだよなぁー。」
と懐かしそうにしみじみ語る父。

あー、その話、母からもよく聞いた。付き合ってもないのに、毎日電話してきて、車で凸してきてたって…。
「もう今だったらストーカーよぉー。」等と言いながらまんざらでもない様子の母が思い出される。