普段父幸男の個性に隠れてしまうが、母も中々の逸話を持つ人物。過去にも触れましたが、今日は母の日なのでそんな母について今一度。


個性豊かな兄、私、妹2人の4人の子ギャングに加え、スーパー自由人父幸男を育て上げた母はとにかく辛抱強い人。そして笑顔とよく通る声が印象的な人でした。

 そんな母の子どもの頃の時代は中学を卒業したら都会に集団就職するのが普通の時代だったそうで、母も15歳で新潟の守門村から上京し、そこから10年、今じゃ即アウトー!!なとても考えられないほどのブラックな環境で働いていたそうです。どの職場に行っても至極の意地悪ババアオールスターが揃いも揃っていたそうで、その時のあらん限りの嫌がらせには、工夫凝らした気付かれないやり返しをお見舞いしていたそうです。
そんなぶっ飛んだ苦労話も母は鉄板ネタにして笑いを取りにかかる。母曰く「なんでも最後に笑ったもん勝ち。」なのだそうだ。
 そうしていくつかの職を体験したのち、ようやく出会えた運命の職場が銀座アスター。職場のみんなも優しくて、本当に楽しかったそうです。

そんな母が15年前に癌にかかりました。それから何日間だったろう、母は泣き、私達も泣いた。しかし、気が付くと母はもう笑っていて、退院したら行く予定の旅行の話に花を咲かせていました。

余命三ヶ月と言われていた母はそれから1年半、精一杯生きてくれました。その間母はもしかしたら1人でゆっくり考えたかったかもしれない。少しそっとしておいて欲しかったかもしれない。それなのに私達は今までのやれなかった親孝行を埋めるかのように入院中は朝から消灯まで母のそばから離れず、退院したら母の好きな場所に一緒に行き、母と共に過ごしました。そんな私達のわがままに最後まで笑顔で付き合ってくれた母。

そんな母のDNAが私にも流れているということが、私の誇りです。