↑の画像は、うちのベランダから見える、京都タワーの様子である・・・。
ご存知の通り「医療従事者」の方々への感謝と激励を込めたブルーライトアップである・・・。
連休前からず~っと毎晩、この色が灯った京都タワーの夜景を眺めている・・・。
うちのベランダから見える同じく京都のランドマークタワー「東寺五重塔」のライトアップは、ブルーではない・・・。
こういう時は、東寺さんも五重塔をブルーでライトアップにすればえ~のに・・・と、思うのだが・・・d(^O^)b大きな声では言えね~けど^_^;
今朝もバフランではなく、ウレラン(ウレタン製のマスクを装着して走ること)で小雨の中を11キロほど走ってきた・・・d(^O^)b
今朝のコースは公認白虎コースだったので、西京極運動公園を往復したのだが、「こでまり」の白い花がきれいだった・・・。
さて、新型コロナウィルス禍の件であるが、この数日新規感染者数は200人台後半が続いてる・・・。
それも、東京が圧倒的に多く、150人台で推移している・・・。って~ことは、東京が一人数字を挙げている状況、って~ことだよな~・・・(-_-;)
例えば昨日の新規感染者数が、大阪府が17人(京都府は5人)に対して、東京都は160人である・・・。
いくら東京の人口が多いとは言っても、大阪府人口880万人に対して、東京都の人口は1200万人である・・・。人口数で大阪の1.3倍なのに、コロナ新規感染者数は9.4倍である・・・。
思わず「東京ど~なってんの!」って~叫び出したくなる・・・。
東京の隣、神奈川県はほぼ大阪府と人口は同じだが、やはり18人と圧倒的に少ない・・・。
って~ことは、東京だけ地勢条件が悪い、って~わけでもね~だろ・・・。
まさか東京都民の民度が低いって~こともね~だろ~から、小池都知事を頂点とする「地方行政」の問題なのか・・・って~ことを勘繰りたくなる・・・。
或いは、首都だけに医療体制も充実しており検査数も多いとかか?
別に東京都をデスってるわけではなく、何故東京だけが突出して感染者が多いのか、知りたいだけである・・・何か心当たりのある方、是非教えていただきて~・・・のであるd(^O^)b
東京の新規感染者数がせめて2桁になれば、全国の新規感染者数も200人台を切って、100人台になるだろう・・・。
東京都民の方々、是非こことは頑張って、感染者数を減らしていただきて~のである・・・d(^O^)b
さて、先日ちょこっと書いたが「今の状況下で、仏教は果たして無力なのか」って~件であるが、わしはそうは思わね~・・・。
最も象徴的なシーンを挙げれば、昨日だったか、「高野山金剛峰寺」の金堂で、理趣経を唱えながら30人の高野山の僧侶が堂内を歩き、あるいは護摩を焚いて「疫病退散」の法要を行っていたFBのライブ配信だった・・・。
それだけのことだったら、別にど~っちゅうこともね~のだが・・・。
そこには、視聴者からの「ありがとうございます」のメッセージが次々と流れ「いいね」「超いいね」が次から次と送られていた・・・。
或いは、僕もたまに参禅する坐禅会では、最近は「ネット配信」の坐禅会を行っているし、有名なスピマスター「あべちゃん」も毎晩ネット瞑想会を実施している・・・。
こ~ゆ~現代人がかって経験したことのない「未曾有」の危機的な状況の中で、宗教特に仏教は、ネットって~ツールを得て、その存在価値を維持継続させる「手段」を獲得することに成功したとも言えるのではないだろうか・・・。
実際、ネット配信の坐禅会(師匠が坐禅している姿を映したスマホをそばに置いて座るだけ)で、自宅で自分も一緒に坐ると、実際に坐禅会に参加しているのと、同じような感じがするのである・・・。
これが、日蓮宗であれば、スマホと共に題目を唱えるのだろうし、浄土系の宗派であればお念仏を、僧侶や他の門徒宗共に唱えれば、同じことだろう・・・。
仏教は、ネットツールを通して、今後ともその存在価値を持ち続ける、と思ったのである・・・。
今にして思うに、かって「みゆき」って~名の仏教学者は「これからの真の仏教は四畳半の部屋で生まれ、その存在価値を持続し続けるだろ~」と予言していたが、実はそういう意味だったのかも知れね~な~・・・^_^;
僕の尊敬する曹洞宗の南直哉(みなみじきさい)禅師は、最近のブログの中でこう書いていた・・・。
良寛和尚の有名な言葉・・・。
「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候、死ぬる時節には死ぬがよく候、是はこれ災難をのがるる妙法にて候」
についてであるが、従来の解釈では・・・。
「いわく、災害や病気、あるいは自然現象など、我々にはどうしようもないことを、いたずらに避けようとして右往左往するべきではない。すべて正面から受け止めて、自分自身が災難、病気、寒さ暑さ、そのものに成り切ってしまえばよいのだ。自分と対象が一つになる。それこそ悟りの境地なのだ・・・云々」
つまり、修行によって「悟り」の境地に至れば、我が身におこるすべてを受容し、動揺することもない。生き死にの現象に右往左往することもなくなる、って~「悟り至上主義」の意ではなく・・・。
どうしようもない災難に襲われた時は、焦っても仕方がない。まずは「覚悟」を決めること・・・って~ところまでは、南直哉老師の解釈も同じである
。違うのはそのアトである・・・いわく。
「そして、その「どうしよもなさ」に深く深く沈潜する・・・」
つまり。自分の無力感をしっかりと見つめるって~ことか・・・。
「その沈潜の中で、自分のこれまでの在り様とそこで変化する人と行動と態度を熟視する・・・。
不可逆的に変化する社会はもう元には戻らない・・・。
そして、その変化した社会の中で沈潜から浮上し、自分のなすべきことを模索すればよい・・・」
禅師は最後にこう書いている・・・。
「(明日の生活をどうするかという、切羽詰まった状況にある方も多くおられるでしょう)でも、いま何もできないことで恥じたり、自分を責める必要はない」
「できない」状況の中に身を沈めながら、「それでも」と思えることが浮かんで来たら、ここは勇気を出して人の縁を頼りつつ(人を頼るには、往々にして勇気が要る)、何か行動を起こしていければ、それが自分の「できる」ことです」
僕は、この数日の暁天坐禅で坐りながら、この言葉の意味を何度も噛みしめている・・・。
あせることはない・・・焦っても仕方がない・・・。ただただ沈黙の「只管打坐」の中で、激変するるこの社会の中で自分のなすべきことが、自然と心の表面井浮かんでくることをじっと凝視している・・・。
「この未曾有のコロナ禍の中で、かくも仏教は無力だったのか」・・・ではなく「今こそ、仏教の真価が問われている」「仏教を信仰することの意味とは何かが問われている」と深く納得しながら、毎朝般若心経を唱え、朝の薄暗闇の中でじっと坐っている・・・。