人を育てる時、育てる側の人が望んでいる枠というのをハッキリさせた方が良い。
「どのような人に育ってほしいのか」という事。

「枠」というのは何がその中に入らないのかを知ること。
違った言葉で言うと、高望みをしないことなのだと思う。

枠に入ると当然ながら窮屈になる。

だから育てられる側の人は嫌がる。

子育ての場合は特に枠に入れる人と入れられる人の間手大きな葛藤が生まれ争いが生じる。
土のランクの会社に行くか、どの大学に行くか、どれくらいの順位を目指すか、それによって一日どのくらいの時間勉強するのか。

積み上げはこのようになるのだろうが、それを崩すのが「興味」
人は興味を持つと大きな力を産む。だから大切だが、人を育てる側の人はこれはプラスアルファの望むことで「枠」の中に入る要素ではない。

ここで言う「枠」とはより人格的なことになってくる。
例えば、噓。
人は嘘をつく。しかしついてよい嘘、許される嘘とそうでない嘘では大きな違いがある。
裏切るかどうか。それが嘘を仕分けするときに目印になる。

親は子供に裏切られたくない。だから嘘をつくと怒る。

だけどどのような裏切りが親にとって耐えがたいのかをはっきりさせ、事前に伝えておけば多少なりとも子供は親に対しての嘘のつき方が変わってくる。

もちろん、親に嘘をつかない。なんて馬鹿げた言葉であり、これを親が望むなら成り立たない。

ついてよい噓と悪い噓、それに分ける。これが、「枠」の一つだろう。

そして、この「枠」というのを教える側と教わる側が理解する必要がもちろんあるが、この「枠」は基本教える側が作るので、教える側にこの「枠」を作る力量がいる。

 

この教える側の力量がないと人は育たない。というのが現実だと思うが、教えられる側に力量がある人が結構存在しているので、教える側の力量があまり求められず、いつまでたっても育たたない環境が作られている。

 

特に職場ではそうだと思う。