is6689ブログで「天孫降臨」の真実が明らかにされています。私も以下検証してみたいと思います。

 

1. 古事記における「天孫降臨」

   古事記において、「天孫降臨」については以下の通り書かれています。

 

    天孫が「天降り=移った」のは、「筑紫の日向」と書かれていますので、「日向」「筑紫」にあると明確に書かれていました。「日向」はてっきり宮崎と思い込んでいましたが、「筑紫=(ほぼ)福岡」にありました。であれば、筑紫にある「日向」を探してみると、ダビデ王が仰っているように福岡市にある「日向峠」が当てはまると考えられます。また「日向峠」の西側にある「高祖山」をネットで調べると、その南側のもう1つの峰が「くしふる山」と言われていたようです。そこが上の写真にある「くじふる嶺」だと考えられます。

 

2. 古事記中巻における神武天皇の御在所

    古事記中巻の最初に以下のような記述があります。

 

  「神倭伊波禮毘古命」とは「神武天皇」のことです。なお、「神武天皇=応神天皇」であることは、is6689ブログで明らかにされています。私のブログでも過去に検証を行っています。

 

     2023年12月29日記事

 

   「神倭伊波禮毘古命=神武天皇」は、「天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命」の御子です。「神武東征」と言われた通り、この方が大和の方に進んでいかれるわけですが、上記写真にもあるように、「高千穂の宮」にお住まいと書かれています。そして、今住んでおられるところより「東に行かむ」と仰っています。その結果、「日向」を発し、豊国の「宇佐」に到っておられるますが、地図にてその位置関係を確認してください。

 

   今「高千穂」と考えられている宮崎県の高千穂町が一番下の赤丸、宇佐はその上の赤丸です。つまり「高千穂」町からすれば「宇佐」は北ですので、神武天皇の言葉とは矛盾します。「高千穂の宮」を福岡市の「日向峠」と考えれば、宇佐はほぼ真東ですので、神武天皇の言葉と合致します。

 

   古事記を読めば、邇邇芸命が天孫降臨されてから神武天皇が東に行こうと思われるまでは同じ居所におられたと思いますので、神武天皇も先の「1.」で検証した福岡市の高祖山周辺にお住まいだったものと考えられます。

 

3. 新唐書日本伝との整合性

    上記わかったことで、私がこれまでわからなかった「新唐書日本伝」の以下の記述の意味がようやくわかってきたように感じます。

 

   「其王姓阿毎氏自言初主號天御中主至彦瀲凡三十二世皆以「尊」為號居筑紫城。彦瀲子神武立更以「天皇」為號徙治大和州。」

 

    日本国の王の姓は「阿毎」ですから、「天」で初代が「天御中主」といい「彦瀲」まで32代続いているとのこと。「彦瀲」」の子が神武ですので「彦瀲=日子波限建鵜葺草葺不合命」です。神武=応神で、そこから「天皇」を号しているというのは理解できたのですが、日子波限建鵜葺草葺不合命に至るまで「筑紫城」に住んでいたというところが、ずっと理解ができませんでした。

 

   この新唐書には「天孫降臨」のことは触れられていません。というのも「阿毎=阿麻=阿麻彌島=徳之島」を隠すことは、神の御計画であり日本に対する最大の命題であり、他国に漏らすことは許されなかったため、新唐書に書かれていないことは理解できます。ただ、「筑紫」はどう考えても福岡の旧国名の「筑紫国」であろうし、なぜここに天孫がずっと住んでおられたと新唐書には書かれてあるのか、ずっとわかりませんでした。

 

    それが、「天孫降臨」の真実がわかったことで、新唐書の正しさがわかったと思います。「高祖山」の西、糸島の当たりは当然「筑紫国」ですので、「筑紫城」を居所としていた書かれているのだと思います。

 

皆さんもお考えください。

 

祭司エノクーアロンの子孫

藤原朝臣太郎道人