本日は文京区の白山神社を参拝。
それなりに涼しい朝早く行こうとしましたが8時過ぎについたころにはもう熱々でした。
この神社は東京十社の一つで結構な人気スポット。
創開は古く、天暦年間(947~957)に加賀一宮白山神社を現在の本郷一丁目の地に勧請したと伝えられる。
後に元和年間(1615~1624)に2代将軍秀忠の命で、巣鴨原(現在の小石川植物園内)に移ったが、その後五代将軍職につく前の館林候綱吉の屋敷の造営のため、明暦元年(1655)現在地に再度移った。
この縁で綱吉と生母桂昌院の厚い帰依を受けた。
白山信仰と言えば石川県白山市の白山比咩神社を総本社とした山岳信仰。
白山比咩神社は崇神天皇7年(三世紀ころ?)に、白山を仰ぎみる遥拝所が創建されたと伝えられるので、
はじめに白山へのアニミズムが起こり
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三世紀ころに遥拝所が創建
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奈良時代に泰澄が開山、山岳信仰として体系化され白山明神・妙理大菩薩として信仰される
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神仏分離により現在の「白山比咩大神 (日本書紀の菊理媛神と同一視される)」「伊弉諾尊(いざなぎのみこと)」「伊弉冉尊(いざなみのみこと)」が祭神となる
といった流れをたどったと考えられる。
さて、今回訪れた文京区の白山神社であるが、祭神は「菊理媛神・伊弉諾尊・伊弉冉尊」である。
古くから親しまれているこの神社であるが、GoogleMapの口コミを見ていると面白いものを発見した。
まず、この神社には境内社が多い。
稲荷神社
浅間神社(特定期間以外立ち入り禁止だったため写真は手前の富士塚のみ)
松尾神社
合祀社(合祀された神社は画像参照)
そして今回メインとなる八幡神社
この八幡神社の前に一本の桜の木が生えており、その手前に旗桜碑というものがある。
この碑自体がGoogleMapに登録されているのだが、口コミを見てみるとなんと資料を基に碑文を文字起こしして、概略まで記載してくださった方がいた。
『東京名所図会―小石川区之部』の二百五十三頁以下に碑文記載があったので,これを転写する。なお,字体のないものは現在の近い字体に置き換えた。送り仮名は読み方が難しそうなものに振った。
ー正面ー
旗櫻碑 井龜泉 鑴
小石川白山神社境内に。旗櫻と稱(とな)ふる一株の老樹あり。幾年代を閲(へ)たるを知らす。相傳(あいつた)ふ。永保(えいほう)年中。陸奥守源義家朝臣(むつのかみみなもとのよしいえあそん)清原武衡家衡(きよはらのたけひら・いえひら)を追討せんか爲め。出羽に赴かんとして。此邊(このあたり)を過らるゝに。草賊の群衆して。通行を妨るものあり。義家朝臣は遙に石清水八幡宮に祈願を籠め。旗を櫻の梢に掲け。兵士を下知して。之を退治せしむ。後出羽より凱陣の日。此地に八幡宮を勧請して。報(むく)え奉れりとなん。其櫻花の蘽(つぼみ)の中に。旗の形に似たるものあり。且、掲旗の傳説(でんせつ)に因縁(いんねん)して。此名を命せしとかや。江戸砂子名所圖會(えどすなごめいしょずかい)に之を載せて。有名の櫻たりしか。漸く年所を歴(ふ)るに随ひ。老株の朽損(きゅうそん)して。遺跡の堙晦(いんかい)せんことを恐れ。茲に概畧(がいりゃく)を碑石に勒(ろく)して之を後代に遺すと云ふ。
ー裏面ー
奉獻 皇國萬歳祝勝紀念
旗櫻碑石並に周圍鐡柵
明治廿九年丙申九月大吉祥
(以下,人名につき略)
概略は
この桜はもう何百年も前からここにある。 言い伝えでは,平安時代中期ごろの永保年間。当時最強を誇った武将八幡太郎義家が,東北で反乱を起こした清原家衡を討伐(のちの「後三年の役」)するための行軍中,この辺を通った。すると,地元民から「山賊が道をふさいでる」と助けを請われる。そこで,義家は京都の石清水八幡宮にお願いをして,桜の梢に旗を掛け,先勝祈願をした上で部下に命じ,これを退治させた。 そして家衡を討伐した義家は,帰還途中,ここに立ち寄って,戦いに勝てたのも「神様のお陰」として,八幡宮を当地に勧請した。 その後,さくらの蕾に旗に似たものがあり,かつ,上記の伝説にちなみ「旗桜」と名付けられた。江戸時代の見聞集である『江戸砂子』には桜の名勝として紹介されていたが,老齢のため腐り始めた。 いつしか上記の歴史が跡形もなくなってしまうのは惜しいので,この石碑を作って,後世に伝えようとした云々とある。
山田万歳氏の概略からさらに取り上げると、この地の八幡神社は永保年間(1081年から1084年)かその少しあとに建造されたということになる。
ここでこの記事の最初に引用した文京区の白山神社の由緒を見てほしい。
この白山神社が勧請されたのは八幡神社より古い天暦年間(947~957)であるが、所在地は現在と異なっていた。
現在の場所に移ったのは明暦元年(1655)である。つまり、この地はもともと白山神社でなく八幡神社が先に祀られていたが、後から来た白山神社に本社の座を奪われてしまったのである。
「奪われてしまった」などという語を使ってしまったが、実際当時の感覚としては「うちの八幡様のところに由緒ただしく将軍様が崇敬する白山様が移ってくるぞ!」と嬉しいことだったのかもしれないし、そんな大層な神社を本社として、なじみの八幡様と一緒に信仰するのは当然だったのかもしれない(このように当時の人びとの気持ちなどに思いを巡らせ勝手に妄想するのが私が民俗学を好む理由だったり)。
しかし、この話の考証として確認しなくてはならないことがある。
それは、そもそも永保年間に勧請されたこの八幡神社はもとからこの地にあったのか、という疑問である。この八幡神社は先に掲載した写真を見ていただければ当然わかる通り、永保年間に建造された約1000年前当時の社殿ではなく比較的新しい(明治?昭和?平成の可能性も)社殿である。
明治時代の神社合祀のように神社の統廃合の政策(私の地元でも多くの神社がこの政策で氏神、正確には鎮守神である熊野神社に合祀されてしまいました)や、老朽化した社殿の修繕・再建に際しての移転など、神社が建造当初の地から場所を移すことはごく一般的な現象である。
そのため、この八幡神社も建造当初の地は別であったのではないかとも考えられる。そうであれば、白山神社に本社を奪われたという説は成り立たなくなる可能性もある。
しかし、この桜についての記事があった。
この記事のよれば、この桜は二代目であり一代目は戦前に枯死したとのこと(出典は不明だが一代目の写真もあることから信用可能なり!)。
一代目の写真が大正~昭和の姿で、石碑が明治時代のものである。つまり、一代目から二代目に変わるにあたって場所は移していないということである。一代目に関しても明治時代にすでに腐り始めていたということは、その前後にこの桜の木自体を掘り起こして場所を移すのは困難であろうから明治の神社合祀の影響を受けていないと考えられる。
そもそも八幡神社を勧請した永保年間から白山神社がこの地に来た明暦元年(1655)までで既に樹齢500年である。八幡神社が白山神社より後に来たと仮定すると、樹齢500年を超えた桜の木を移してきたということになってしまう。木の移し替えについて詳しくはないが、これは相当困難だろうと想像できるし、わざわざそんなことする理由も思いつかない。
よって、八幡神社は建造当初から社殿の地を大きく変えていないと言えるだろう。やはり、白山神社が後からきて本社に成り代わり現代で人気スポットとして成立しているのだろう。
エモい
白山神社および八幡神社に関してはここまで
余談であるが、今回の記事の要となる口コミをしていただいた山田万歳氏のアカウントを見ると相当数の口コミをしている様子。
そのどれもが今回のような資料に基づく解説等であり非常に興味深かったため、氏のアカウントをフォローさせていただいた。
今後は氏の口コミをもとに史跡などを旅してみたいなと思ったり。
ぜひとも本人と直接話をしてみたい~~。
今回の白山神社や八幡神社、また、山田万歳氏のことを知っている方などおりましたら是非コメントで教えてください。