真剣な表情で金福童さんの話に聞き入る参加者=18日、西原町の沖縄キリスト教学院大学(写真左)

(琉球新報5/19の記事切り抜き)
「花を咲かせることもなく、血の涙を流した少女の痛みが分かりますか」。旧日本軍の「従軍慰安婦」として強制連行され、中国や東南アジア諸国の慰安所で、日本兵の性の相手をさせられた金福童(キム・ポクトン)さん(87)が
18日、西原町の沖縄キリスト教学院大学で焼く140人を前に過酷な体験を語った。
「軍人の慰め物として踏みつけられたのに、いまだに謝罪もない」。背筋を伸ばし、時折涙を拭いながら語る一言一言に、会場は静まり返った。
金さん、過酷体験語る
朝鮮半島が日本の植民地だった1941年、慶尚北道の梁山で暮らしていた当時14歳の金福童(キム・ボクトン)さん(87)は区長と一緒に来た日本人から「挺身隊に行け」と脅迫され、バスに乗せられた。
「軍服を作る工場で働く。嫁に行く年になれば帰してやるから」と誘われたが、実際は違った。船に乗せられ山口県の下関市を経由し、台湾から中国の広東省に送られた。病院のようなところでいきなり、腰から下の衣類を脱いで板の上に乗るよう指示され、検査を受けた。背筋が凍り付いた。検査後、案内された民家では、一緒にいた女性30人をそれぞれ入れる部屋が用意されていた。
1日中、兵士の相手をさせられた。「週末は数え切れないほどの列が並んだ。本当に人間がすることなのか」。コーリャン酒を大量に飲んで死のうと試みたこともあったが、一命を取り留めた。
45年8月の日本敗戦直後、シンガポールの南方軍第10陸軍病院で看護訓練中に、親戚の韓国人男性と偶然再会した。
男性のあっせんで米軍収容所へ送られ、その後、韓国の釜山港にたどり着いた。8年ぶりの故郷だった。
60代になって元「慰安婦」として名乗り出た。以来20年余、ソウルの日本大使館前で開かれるデモに参加し、謝罪を求め続けてきた。「今でも眠れない日がある。母に過去を打ち明けると、母は苦悩のあまり心臓病を患った」。消えない痛みを抱えて生きてきた。
金さんの体験に、会場からはすすり泣きが漏れ、「1人の女性の人生を狂わせてしまった。胸に突き刺さった」などの感想が寄せられた。金さんは日本の国防軍の保持を打ち出した自民党憲法改正案に危機感を示した。「再び戦争を起こす国にしてはいけない。政治家が正しい道を進めるよう、皆さんが努力してほしい」と切々とした口調で若者に訴えた。
琉球新報2013年05月19日
====================
(琉球新報-沖縄の新聞-紙媒体では掲載されたこの記事ですが過去記事には掲載されていませんので文字に起こしてみました。疲れました。)
さて、あれだけあちこちの講演に記者を呼んで記事にしてもらったわりには金さん、24日の橋下氏との面会をあっさり急遽キャンセルしました。
急遽キャンセルした理由は、「橋下氏の発言に怒りを覚えるとともに、体調と気分が悪くなり会う気力がなくなった。」んだそうです。
会いに来たのは自分の都合
だけど
ドタキャンは橋下氏のせいというわけです。
こんな風に自分は常に被害者であるという立場で生きていく人生もありなのかと、驚くとともに、私は人として、また同じ女性としても呆れます。
金福童さん1926年(大正15年)生まれ 2013年5月現在、87歳。
何月生まれなのかを明らかにしていませんので告白している体験年齢がズレているようですが、それにしても3年もズレるというのは有り得ません。
金さん曰く、『14歳のころ、旧日本軍に「軍服を作るために日本へ行く」と日本統治下の韓国から挺身隊へと連行され、アジア各地の前線を転々とし、8年間、「慰安婦」を強いられた。』とのことです。
実際に金さんの当時の年齢から追ってみました。

(琉球新報5/19の記事切り抜き)
「花を咲かせることもなく、血の涙を流した少女の痛みが分かりますか」。旧日本軍の「従軍慰安婦」として強制連行され、中国や東南アジア諸国の慰安所で、日本兵の性の相手をさせられた金福童(キム・ポクトン)さん(87)が
18日、西原町の沖縄キリスト教学院大学で焼く140人を前に過酷な体験を語った。
「軍人の慰め物として踏みつけられたのに、いまだに謝罪もない」。背筋を伸ばし、時折涙を拭いながら語る一言一言に、会場は静まり返った。
金さん、過酷体験語る
朝鮮半島が日本の植民地だった1941年、慶尚北道の梁山で暮らしていた当時14歳の金福童(キム・ボクトン)さん(87)は区長と一緒に来た日本人から「挺身隊に行け」と脅迫され、バスに乗せられた。
「軍服を作る工場で働く。嫁に行く年になれば帰してやるから」と誘われたが、実際は違った。船に乗せられ山口県の下関市を経由し、台湾から中国の広東省に送られた。病院のようなところでいきなり、腰から下の衣類を脱いで板の上に乗るよう指示され、検査を受けた。背筋が凍り付いた。検査後、案内された民家では、一緒にいた女性30人をそれぞれ入れる部屋が用意されていた。
1日中、兵士の相手をさせられた。「週末は数え切れないほどの列が並んだ。本当に人間がすることなのか」。コーリャン酒を大量に飲んで死のうと試みたこともあったが、一命を取り留めた。
45年8月の日本敗戦直後、シンガポールの南方軍第10陸軍病院で看護訓練中に、親戚の韓国人男性と偶然再会した。
男性のあっせんで米軍収容所へ送られ、その後、韓国の釜山港にたどり着いた。8年ぶりの故郷だった。
60代になって元「慰安婦」として名乗り出た。以来20年余、ソウルの日本大使館前で開かれるデモに参加し、謝罪を求め続けてきた。「今でも眠れない日がある。母に過去を打ち明けると、母は苦悩のあまり心臓病を患った」。消えない痛みを抱えて生きてきた。
金さんの体験に、会場からはすすり泣きが漏れ、「1人の女性の人生を狂わせてしまった。胸に突き刺さった」などの感想が寄せられた。金さんは日本の国防軍の保持を打ち出した自民党憲法改正案に危機感を示した。「再び戦争を起こす国にしてはいけない。政治家が正しい道を進めるよう、皆さんが努力してほしい」と切々とした口調で若者に訴えた。
琉球新報2013年05月19日
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(琉球新報-沖縄の新聞-紙媒体では掲載されたこの記事ですが過去記事には掲載されていませんので文字に起こしてみました。疲れました。)
さて、あれだけあちこちの講演に記者を呼んで記事にしてもらったわりには金さん、24日の橋下氏との面会をあっさり急遽キャンセルしました。
急遽キャンセルした理由は、「橋下氏の発言に怒りを覚えるとともに、体調と気分が悪くなり会う気力がなくなった。」んだそうです。
会いに来たのは自分の都合
だけど
ドタキャンは橋下氏のせいというわけです。
こんな風に自分は常に被害者であるという立場で生きていく人生もありなのかと、驚くとともに、私は人として、また同じ女性としても呆れます。
金福童さん1926年(大正15年)生まれ 2013年5月現在、87歳。
何月生まれなのかを明らかにしていませんので告白している体験年齢がズレているようですが、それにしても3年もズレるというのは有り得ません。
金さん曰く、『14歳のころ、旧日本軍に「軍服を作るために日本へ行く」と日本統治下の韓国から挺身隊へと連行され、アジア各地の前線を転々とし、8年間、「慰安婦」を強いられた。』とのことです。
実際に金さんの当時の年齢から追ってみました。
