平安㍻平和がますます続きますように♪(参) | SHOW!!SAGEs@Ameblo(ソーセージ?下げ?じゃなくて??@雨?飴?風呂?‥って

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元々http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/showering他でのHNで、とある方に惹かれ、20100905日デビュー‥
が、先輩「しゃわりん」(syawarin)様がおられ、(ご挨拶したものの既にヤメてる??)大変恐縮ww。当面、「新米‥」(あるいはシャワリンとか?)として、

あけましておめでとうございます!

昨年に引き続き、『平清盛』に、「デモ」とも関連して余談ですが一言。
(ちなみに、
目NHK大河ドラマ『平清盛』総集編地上波放送予定
 昨日1/2水17時~18時 第一部「武士の世」 に続き、

 今日⇒ 3木16時~17時 第二部「保元・平治の乱」
       17時~18時 第三部「海の都」

 明日  4金 3:05~4:05 平清盛ゆかりの地を行く



デモ等や「お上に物申す」文化・習慣は西洋近代からの舶来品で、日本には元々なかったものだから未だ根付かない、といった通念がありますが、
どちらも史実以上に誇張ないし歪曲されています。

江戸幕末期の「ええじゃないか」やら「世直し一揆」やら挙げられますが、

前述のように中央政府が、ごく一部の「世襲」政治屋等の既得権独占で腐敗する中、
「源氏」と「平氏」を媒介として、中下級~在地階層は地方分権、自治や地位の向上、
絶望的な法制疲労・社会矛盾に対し「現場」主導・「下から」の修正・改革を成し遂げてきたわけです。

それは何も武力を伴う反乱等に限らず、
むしろ、平和的なデモや団体交渉、待遇改善等を求めるストライキ、抗議等がはるかに多く、在地「百姓」から中央宮廷官庁の下級官僚・公務員らまで、1000年以上前からありました。

その中でここでは宗教関係について紹介します。(「祭り」儀式なども、政治への批判・抗議色やガス抜き等、関連はあるでしょうが今回は省きます)

「悪僧」「衆徒」「大衆」等とよばれ
「かとう(「襄頭」「裏頭」…他の字もあったと思いますが今見当たらずスミマセンw。頭部を布でつつむ宗教習俗は今もあり、男性でもターバン等のように、寺院・時代等TPOにより巻く様式にも違いありました)」装束で、
戒律とか寒さや怪我を防ぐだけでなく、剃髪していない頭や兜、素顔まで隠す目的もあったのかもしれません。
(最近は全くみかけませんが、一昔前など、ヘルメットにグラサン覆面、角棒など)TVでもお馴染みですね。

彼らはよびかけ、鐘の音等に応じて集まり、「山門僉議」「満山集会」等を開き、意思決定をします。提案・演説者や檄文に賛同するなら

「モットモー!モットモ!」(尤も。今様=現代風なら「いーね」とか?よりはやっぱ「そーだ!そのとーり!賛成!異議なし」でしょうかw)

等と意思表明・合意し、
抗議文を送ったり、終いに強硬手段、朝廷国衙等の政府に対しては「強訴(ごうそ。嗷訴)」に及びます。
元々「学僧・侶」とは別の、雑用等をする「堂衆」だったり、閉鎖的な身分社会で無名の人々が
やがて、天台座主や別当ら高僧の支配統制も内容によっては拒否・指弾、突き上げ、雲の上のおエラいさん方をも震え上がらせるようになります。

当初は宗論・教義上、「この行事や寺院の役目は、自分たちの宗派・様式で修行した者が務めるのが正当・伝統だ!」等、
また、学識徳望経験や処罰を被る覚悟もある老僧らの諌奏や論争だったのですが、
次第に世俗的な陳情・請願・訴訟が増えます。

やはり、ごく一部の家系が中央政官界で公職を独占利権「世襲」私物・固定・身分(今なら自民党「政治屋」)化し、一般人とりわけ地方と隔絶乖離し省みない腐敗悪政により国庫財政も破綻、
その中で、高僧官位も同様に、その子弟の独占状態とされ、「末法の世」といった退廃が顕著になったのです。
(今日の日本では一応「政教分離」の建前がありますが、「平和やいのち、弱者を守る」理想を捨て去ってでも利権のため、政権に加担する勢力もあるようですね。)

摂関家ら藤原氏の氏寺・社である興福寺・春日大社が古都奈良の南都六宗諸大寺でも筆頭、代名詞となり、京都東郊清水寺や八坂神社祇園感神院等をも末寺・社に
他方、平安京の鬼門(北東の方角)の鎮守、近江国(滋賀県)の比叡山延暦寺は、春日神木を振る「南都」「奈良法師」に対する「北嶺」「山法師」とよばれ、日吉山王の神輿等を振りかざし「白河法皇の三不如意」の一にかぞえられました。
摂関政から院政下、荘園整理令で逆に荘園が、国司任免権を握る彼らに集中し超法規的・人治的な中で逆に専裁独断者でもどうにもならない災厄、病老死苦、そこに神仏への畏怖崇敬信仰依頼が良くも悪くもあり、
専横暴政を戒め正す余地もあったのです。

洛中内裏に押し掛けて要求を行い、それが通らない時は、対政府の最後の手段といえますが、神輿・神木を御所の門前に放置し、政治機能を実質上停止させる等に及び、

文字通り「さわらぬ神に祟りなし」それぞれの「神人(ジニン)」等以外は
それこそ誰も「手がつけられない」「目も当てられない」状況に追い込んだのです。

春日神木動座はじめは諸説ありますが、日吉山王「神輿振り」は1095年、延暦寺の僧兵が美濃国の荘園問題で、受領(国の長官、国ノ守など)源義綱の配流を要求して強訴を起こした際に、関白藤原師通の命により賀茂川原の守備に就き、これを撃退します。しかしその際、源頼治の手勢が日吉神社の神輿を射たことが、さらなる延暦寺側の態度の硬化を招き、その4年後の承徳3年(1099年)には、師通が38歳にして急死。これを神罰と恐れた朝廷は、ついに頼治を処罰することを決断し、佐渡国(一説には土佐国)への配流としました。
曽祖父頼親、祖父頼房に続き、頼治は比叡山強訴で処罰され、他方「日本一悪僧武勇」信実は興福寺の実権を握り、対立し続けていた宇野七郎親治は別個に主君である藤氏長者忠実・頼長の手兵として駆けつけます。

この翌年1096年から2百年にわたる十字軍。

ナチスヒットラーらが理想・モデルとし、ユダヤ民族を征服した古代ローマ帝国に続き、はるかに長くイスラム教徒らまでの大規模な侵略大虐殺をするカトリックの教皇主唱・勅令による十字軍(イスラム側の史料では元々「十字軍」どころか、同じ一神教「啓典の民」キリスト教徒自体のとか、宗論教義上の等でなく単にアラビア語で「フランク(firanj、ヨーロッパ)」と呼び、蛮族の侵略と認識していました)とも、その中で生まれる「騎士団」(騎士修道会)とも、
さらに秩序治安が乱れきり武装自衛が不可欠となる戦国時代の僧兵ともしかし違い、
あくまで殺生を厳しく戒める仏教を信仰し、殺伐とした、
この千年以上もの間、日本では戦以上の災難脅威たる火・震・嵐等から法灯~仏画・像等の文化財を命がけで護り伝えてきたのも彼らです。

神木・神輿は恐らくデモの路程街中で乱暴狼藉、とりわけ他の寺社の衆徒らとの紛争では焼き討ちもありましたが、少なくとも当時は武装集団ではありませんでした。

また、カリスマ教祖ら独裁的煽動下とか、異端邪教ら敵も、自分達も容赦なく殺すような「聖戦」狂信カルト集団でもありませんでした。

『枕草子』を綴った才女、清少納言の兄弟の洛宅を集団で襲撃暗殺、彼女自身も現場に居合わせたともいわれる事件を起こした暴力団まがいの源頼親(みなもとノよりちか)は、
鎌倉幕府初代将軍となる源頼朝(よりとも)ら「河内源氏」の祖である源頼信(よりのぶ)の同父母兄(弟説もありますが)で、
長寿(※これは重要でした)でもあり、また道長の家司受領の一人として、本家最有力候補でしたが、
母家である藤原南家の菩提寺を支援する目的もあってか大和国の受領を再三申請して果たし大荘園領主である興福寺等と対立しましたが、
抗議に来た興福寺僧徒らに対し、弓矢を用い、死傷者を出す強硬手段に及びました。

弓矢は前回述べたように武人の象徴でもある飛び道具、いわば発砲したわけで、さすがに大問題となり、
息子ともども失脚、(やはり当時は死刑執行の無い平安時代で)それぞれ遠島へ配流の刑に処されます。

ところがその子孫は単に退去や降伏でなく、むしろ興福寺の僧兵になり悪名を馳せる者も出ます。
伊勢平氏でも、平清盛らの先祖とは対立し、敗退する平致頼は、興福寺の要請をうけ郎党達を助っ人に出したものの、弟入禅が比叡山僧として直接出てきた為、手を引いてしまい興福寺側が敗れ、末寺社だった祇園八坂神社は比叡山に奪われてしまったと伝えられます。

他方、学者では信西、その従者西光や、兵家では西行、文覚等、成人仕官後、挫折等から出家・遁世したものの俗世と縁を切るどころか寧ろ出家後飛躍、政治的に活動し影響力をふるう者もいました。

これらに対し、
平安二大総本山岳仏教高野山金剛峰寺座主は東寺長者が兼ねる等で退廃していたものの、「興教大師」覚鑁は、真言宗の改革に努めた中興、新義真言宗・根来開山の始祖として、また、当時も鳥羽法皇他多くの弟子信徒たちから崇敬されました。実は元々常陸伊佐平氏のうち鎮西九州に赴任土着した一派で荘園の地元武官を務めていた父を、京下りの荘官に冷遇迫害され10歳で喪い、上京出家し勤労苦学してきた人物です。
また、
伊勢平氏の家人伊藤党で9歳で孤児となる明恵は、
例えば、平治の乱後、朝敵逆賊の子なが助命され幼少から終生、仏道に生きるはずだった義経兄弟が(多分に利用しようという者ら、周囲の指導煽動の差異で)密かに復讐・返り咲きを目指しそちらの勉学・戦略戦術の準備をし続けたのと対照的、
また、法然も、宗派上は違いますし、平氏ではないもの美作国の荘園の押領使(やはり守護)の父を9歳で源氏(系譜不明)に殺害されますが、敵討ち・修羅ノ道をすて、逆に自分や仇敵も含む人々を救う、本当に僧侶・求道者として修行勉学真理追究に励み(単なる僧官・位等でなく)尊崇される高僧への道を歩みました。