わが国に現存するなかで、最も優美な城は何かと聞かれたならば、私はためらうことなく、二条城だと答えるであろう。二条城は、大手門からしてどこか他の城廓とちがった感覚を与える。なるほど、そこにめぐらした堀は深く、門の扉は厚い鉄板に無数の大釘が頭をのぞかせてうちつけてある。それは、外敵の侵入に対して厳として構えている姿だ。
 しかしながら、一歩はなれてこの扉をのぞむとき、それらの鉄板はまるで着物の縞模様を思わせるように浮かびあがり、適当にうちつけられた大きな鉄鋲は、まるで人間の乳房のような円みをもって一つのアクセントを構成する。それは、ひどく斬新なデザインを思わせる姿だ。
 その門を入って、左手のほうにまわってゆくと、そこには、桃山城から移したという豪華な唐門がある。雲に龍、竹に虎、牡丹に唐獅子などの彫刻がほどこされ、いかにも桃山らしい雰囲気を盛りあげている。
 その門を入ると、二の丸御殿の大屋根が目の前にある。遠侍、式台、大広間、黒書院、白書院とつづく、この二の丸御殿は、その幾重にも重なった大屋根を、ここでは二面の入母屋として最も美しくまとめあげている。その屋根に輝く菊の紋は、明治になって徳川の葵の紋ととりかえられたのだ。
 この御殿に入れば、人々はその金色さん然たる障壁画に、当時の将軍の威光をみ、また親藩、譜代、外様と、区別のやかましかった大名の地位について考えることができるであろう。欄間から格天井、そしてふすまの引き手や釘かくし、それらの一つ一つに施された意匠の細心な工夫。
 ところで、ここはかつて三代将軍徳川家光が後水尾天皇の行幸をあおいだところだった。初めは家康の京都における居館として比較的簡素に営まれたものだったが、天皇の行幸ということで、この城の今日の姿が生まれたものである。家光以後、この城に入った将軍は、最後の二代将軍家定と慶喜で、このときは将軍家にもう天皇を呼び寄せる力はなく、むしろ将軍のほうから拝謁に出かけ、慶喜に至ってはついにこの城で大政奉還の決心をしてしまうのである。この城には徳川幕府の初めと終わりが、いかにも劇的に構成されておさめられているようだ。
 ところで、ここの二の丸庭園は、小堀遠州の作になる最も代表的な庭園の一つである。さすがは一代の巨匠遠州がみずから指導にあたったというだけに、すばらしい景観をほこっている。池のほとりに立てられた石のたたずまい。水を中心に組みたてられた優雅な雰囲気、そこには日本庭園の最も美しい姿が一つの空間にまとめあげられている。
 この城は、どこを歩いてみても美しい城だ。
 せまい盆地のなかに100万の人口がひじめきあっている。そして四方から集まってくる観光客が、大型のバスを走らせて、街から街へ、洪水のように流れてゆく。京都は、年とともにせまくなってゆくようだ
 その京都のほぼ中央のところを占めて、約10万坪あたりの空間がある。そこは、老樹が生い茂って緑が濃い影をつくり、人々が憩いを求めて三々五々、打ち連れだって歩くところだ。ぜいたくといえば、このくらいぜいたくな場所はない。人々は、この築地のあまり高くない石垣でめぐらされた一面に入ると、何かひどく感謝にみちた気になる。こうしたところが残されている。そして、私たちはいま、ここのなかを自由に歩くことができる。
 京都御所、その御苑、私たちはどのように京都の街がたてこんであふれてこようとも、この一画にだけは手をつけてはならないと思う。このすばらしいぜいたくを守ってゆきたいと考えるのだ。
 京都御所は、平安京の昔は、この場所ではなかった。もっともっと西のほうにあった。ここは、もと権大納言藤原邦綱の邸で、里内裏となっていたものだった。それがもとの皇居がいく度かの人事によって、ついに南北朝のころ、ここに移されることになり、規模を拡大して内裏としての形をととのえることになったのである。
 室町幕府も末期となり、応仁の乱が起こってからのこのあたりの状景は、たいへんなものであったらしい。築地は破れて、商人なども自由に往来し、ときには生首を入れた長持がころがしてあったりした。織田信長や豊臣秀吉がそれを修理して、威容をととのえたこともあった。
 しかし、その後も、承応、天明、嘉永と3度の焼失にあい、天治元年には蛤御門の戦いがあった。天明の火災のあと、ときの老中松平定信が古式を研究して、そのとおりに復活したことは有名である。嘉永のあと、寛政の復興のときも、定信のあとが踏襲された。
 この御苑のなかには、多くの公家屋敷も建てられていた。蛤御門の戦いでは、そこにおしよせた長州勢に心を寄せる公家もあって、そこの一角を燃えあがらせたこともある。そしてその長州軍のうち出す銃丸が、賢所のあたりまで及んできて、太平に馴れた公家たちの肝をふるいあがらせたこともあった。
 御所は、南に向かって建礼門がある。そのなかが自砂をしきつめた庭で、右近の橘、左近の桜が植えてあるところだ。紫震殿は、天皇の政治をとられたところである。いまそこに置かれた高御座は、その天皇の臨御されたところ。しかし、もう人のすまなくなった御所をみると、何か寒々とした感懐がわかないでもない。
 桂離宮は、阪急電車を桂の駅で降りて、川の流れている方向に向かって歩いてゆくと、およそ10分から20分くらいでゆけるところにある。遠くからみると、その松や竹の生い茂った一かたまりの、こんもりとした森は、いったい何だろうと思わせるような姿である。しかし、私どもは、それに近づくにしたがって、それをとりかこむ竹の垣や、門などをみて、やはり簡素ななかにも、どこか気品のある貴族の別荘を感じるようになる。
 かつて、わが国を訪れ、わが国に眠った数々の美を堀り起こしていったブルーノ・タウトは、この桂離宮をも訪ねているが、ここの入り口に立っただけで、もうすっかり感激してしまっていた。彼は、「このみごとな門!わたくしたちはしばらくその前に佇んで入ることを忘れた。竹でできた清々しい門はまるで新しいもののようである。門につづく高い垣は、うちに秘めた美しいものを外界から遮断しているが、しかし少しも威圧的なところがない」(日本美の再発見)といっている。
 この門のなかに入って、桂離宮のすばらしい庭園や建築をみるためには、人々はまず、拝観のための宮内庁の許可証を受付までとどけねばならない。それから初めて観賞することが許されるのである。しかし案内の人の説明は実に堂に入ったものである。いろいろな方面の専門家があらわれては、見どころの要点を話してゆくので、それらの智識の蓄積は、ここの人たちをりっぱな専門家にしてしまっている。私たちは、何の基礎知識なしにでもここを訪れて、十分な説明をきくことができる。
 それはさておき、この驚くべき意匠と芸術の綜合は、いったいどうしてなされたのであろうか。ここの庭園を営み、この建築を設計した人は、八条の宮智仁親王といわれている。歴史の表面に花々しく登場するような人ではなかった。ただこれだけの物をつくりあげて、そうして静かに去っていった人である。それは、小堀遠州とか、古田織部とか、あるいは本阿弥光悦といった人々のように、たくさんの意匠や製作を残していった人ではない。
 この桂離宮を残すためだけに生まれたような人だった。しかし、それで十分なのである。いや、十分以上なのだ。私たちは、いまその庭園のほとりにたたずみ、また屋内の意匠に目をみはるとき、日本の歴史のうえで最高に輝いた一つの時代を思い浮かべることができる。安土、桃山時代の文化だ。それは豪華で、奔放な魂の噴出であるが、しかしまた王朝の文化の復活として、じっと民族の伝統に根をおろしていた。私たちは、その文化の最高の形態をここにみていることの幸福を思う。
 月見台の前に立ってみる、心の明るくなるような、あの庭の相貌はどうだ。そして、パステルカラーを思わす、あざやかな緑の芝生に、美しい線をえがいて並ぶ、あの建物のたたずまいはどうだ。
 西芳寺が苔寺と呼ばれるようになったのはいつのころか知らない。西山の懐にひっそりと静まっていたこの寺は、陰湿な場所だけに、一面の苔におおわれて人に知られるようになり、いまは西芳寺よりも苔寺のほうで有名になってしまった。春から秋にかけて、ここを訪れる人はたいへんな数にのぼるであろう。心なしか、このごろは苔の色も以前より悪くなったような気がする。
 ところで、この苔寺は、奈良時代に行基が建てた49院の一つだということである。その後、荒廃していたのを南北朝時代に夢窓国師が再興したものだった。夢窓は、「煙霞の痼疾」とみずからを呼んでいるほどの庭園好きであった。彼には、大自然の真理を探ることは、すなわち泉石をたたむことであり、禅と庭つくりとはそのまま一つのことだったのである。
 夢窓が、どこまで苔を意識してこの庭を考えたか、それもわからない。しかし、49院の一つであった寺院あとの荒れはてた風景は、おそらくは夢窓の心に、その物寂びたながめをそのまま生かして、ここに一つの境地をつくり出そうと決心させたのではなかったろうか。彼は、かつて放生池、いまは心字池をその音を物語るままに残して、平安朝式の庭にまとめ、別に上の庭に枯山水を営んで、みずからの庭に対する心を表現したのである。
 だから、この苔寺の庭は、まったく2つの異なった部分からなる。本堂からのぞむ夜泊石の浮かぶ水の面、あるいは湘南亭からみる黄金水のあたり、それはそれぞれに人の心をうつながめである。しかし、一歩向上関をぬけて曹源一滴のところをのぼり、あの指東庵の前にたたずむとき、私たちは、何ともいえない自然のきびしさ感じるであろう。それは、ただ、木々の下に石をたたんで、滝をあらわす工夫をしたものだが、その工夫が自然の深奥にせまっているような気がするのだ。人間の求道のすさまじさがそこににじみ出ているような、一種の恐れに似た感じさえもいだかれる。
 かつて、この庭は足利義満もしばしば訪れた所だった。一代の驕児ともいわれたこの人は、ここにあらわれると、従者を下の庭に残して、ただ一人指東庵に入り、座禅三味にふけっていたという。彼の心に、あの滝の石組は、いったい何を暗示していたのであろうか。
 義満にならって、銀閣を営んだ足利末期の将軍義政も、またここにしばしば駕籠を寄せている。彼は、この庭に心酔のあまり、あの銀閣の庭をこれに模倣してつくらせたほどだった。「世上三分の二餓死に及ぶ。骸骨衛に満て道行く人あはれをもよふさずと云ことなし」と『長禄寛正記』には記してある。その寛正の年にも、義政は駕籠をこの寺の間にかき入れたのだが、ここの自然はその義政をどのような心で迎えていたのであろうか。
 神護寺を出て、周山街道をさらに奥地のほうへと自動車を走らせてゆくと、やがて高山寺の入り口にくる。しかし、高山寺の石段は神護寺のように険しくも、ながくもない。すぐにそれはゆるやかな木かげの道となって高山寺の石水院に導いてくれる。
 石水院は、後鳥羽上皇の学問所を移したものといわれているが、さすがに平安時代の建築様式が残されており、いかにも王朝的で優雅な趣がある。案内をこうと、渡り廊下をすぎたところの広い回廊で、老住職がこの寺の由来などを聞かせてぐれることがある。そこの庭の苔むした上に、ただ一つの燈籠が立っている。春から夏にかけての楓は、何ともいえない緑の深さをもつが、その楓がいっぱいに枝を広げて地面の苔と対しながら、その一基の燈籠をつつんでいるさまは、やはり私たちが高山寺にきていることをしみじみと思わせる。
 この回廊の椅子は、私が老師から善妙の話をうかがったところだ。古い経典に出てくる善妙という女性が、一人の修業僧に懸想して、ついには龍にまで化身し、そのあとを追ったという話だ。その善妙の美しい像がここに残されているのである。鎌倉時代の有名な仏師、運慶の作と伝えられるものだ。
 善妙の話は、何かわが国の紀州に伝わる安珍、清姫の伝説を思わせる。おそらくは、あの仏典から暗示をうけたものであろう。とすると、その伝説の地の近くに生をうけたこの寺の中興の祖、明恵上人に何か関わりがつくのではなかろうか。そのような話も記憶のなかに残っている。
 そこを右のほうにすすんでゆくと、それは石水院の正面の廊下に立つことになる。すぐ前に谷をへだて、赤松が美しい幹をみせている。誰かが、わが国でいちばん美しい木は赤松だといったそうであるが、このあたりの赤松は、また格別によい。
 縁側にすわりこむ。すると、すぐ下の谷底を流れる清滝川の水の流れが思われる。大きく弧をえがいて曲がったところが渊だ。1232(貞永元)年7月、承久の乱に夫や子供を失い、辛うじて救われたその明達も、またこの世を去ってゆく。絶望のはてに身を投じて死んだ明達尼の最後が、その渊であったという。
 ここはまた、鳥獣戯画の絵巻でも有名なところだ。その模本が石水院の本堂に広げてあった。庶民の哀歓がにじみ出たようなその寓意と筆には、何か心をうたれるものがある。
 清滝川の上にかけられた朱塗りの橋を渡ってゆくと、胸をつくような急傾斜の石段が目の前にせまってくる。この石段をのぼってゆくと、私たちはほっとした思いで神護寺の山門の前に立ことができる。蛇足のようだが、数えてみたら石段は300と50くらいあった。
この神護寺は、鎌倉に幕府をひらいた源頼朝の援助をうけて、有名な荒法師文覚がこれを再興したものだった。文覚は、その前1168(仁安3)年にここを訪れているが、そのときの状態が彼の心をそれと決心させたのであろう。『平家物語』は「久しく修道無りせば、春は霞に立籠られ、秋は霧に交り、扉は風に倒れて、落葉の下に朽ち、甍は雨霧に侵れて、仏檀更に顕也、住持の僧も無ければ、稀に差入る物とては、明月の光ばかり也」と、文覚の目にうつったさまをしるしている。
神護寺は、和気清麻呂が河内に建立した神願寺を、その没後、子の清綱らが、いまの地に移したものであるという。しかし、その以前に高雄寺と称するものがここにあったというから、以前の歴史をしらべると、かなり古いところまでさかのぼるのであろう。最澄が唐に留学する前の年、この寺で南都の七大寺を代表する学僧たちと論戦を戦わせ、新しい仏教の将来を暗示したことは、ただ単に日本仏教史のうえにおいて、特筆さるべきことのみではなく、またわが国の思想史をみるうえでも重大な意味をもっていた。
そしてまた、この寺には空海自筆の「潅頂暦名」が残されているように、空海すなわち弘法大師が勅によって、しばらく入寺していたこともある。「潅頂暦名」は、そのとき両部潅頂をさずけた者たちの名簿であるが、そのなかには最澄、真綱など当時の最高の学僧の名もみえている。
それほどの寺が、荒廃に帰していたのだ。文覚ならずとも、再興の気持ちをふるいたたせるであろう。それが文覚のような荒法師であっただけに後白河法皇の怒りをかい、ついに伊豆配流のこととなり、頼朝との交渉となってきたのだ。しかしこのとき、頼朝の将来と平家政権の没落をよみとっていた文覚には、さすがといえるところがある。
楼門をくぐると、右手に寺務所があり、さらにすすむと和気の清麻呂廟、金堂、多宝塔などがある。いずれも近年になって改築、修補されたものだ。しかしながら、金堂のなかの薬師如来像や、多宝塔におさめられた五大虚空蔵菩薩像など、密教芸術の粋を示した作品はまたみのがしがたいものがある。
ここの紅葉は、ほんとうに錦を思わせる、自然が巧まずして織り出した錦だ。そのなかを歩いてゆく人間も、ここでは一幅の絵になるであろう。酒の好きな私が、酒さえなくばと思うのも、このような自然の美にふれての感懐だった。
冬が去って、人々が野山のいこいを求めて外を出歩くようになると、御室から高雄、栂尾のほうへ向っているアスファルトの道は自動車の行列で埋まってしまう。自動車!自動車!また自動車!なのである。それが、真白なほこりを立てながら走ってはとまり、とまっては走りながらその道を流れてゆく。
そうした道の片ほとりに、その雑踏をさけて小さな集落がある。谷間の小さな小さな一部落だ。その谷間に入ってゆく小道が、昔、学生時代に私たちがよく歩いた高雄への道だった。いや、私たちだけではない。その昔、何百年か前に、文覚が通り、明恵が通り、梁川紅蘭というような幕末の佳人も通った道だった。
思いなしか、このあたりの民家には、そのような人々の誰かが一刻のいこいを求めて過ぎていったような、そのような歴史の風情がある。平地がないので、どの家もどの家も、石垣の上に建っている。その石垣がまた実に古いのだ。それがまた、幾百年かの星霜を感じさせる。
その家々のあいだを縫って、小さな川が清冽な水の流れを走らせているが、気がつくと、このあたりの家々は、ほとんどがその石垣や外壁に木材を立てかけているということだった。そういえば、この部落では小さな庭のような空間でさえ、手入れのよくゆきとどいた桧が植えられており、それがこの付近にすむ人々の生活をあらわしているように思えた。これから奥にゆくにしたがって、北山丸太の有名な産地となるのだ。
テレビが入り、電気洗濯機や電気釜が、この谷間の台所にもおし入ってきた。そして材木をひく電気鋸の音が、この谷間の静寂を破っているのである。しかし、私は20年以上も昔になる当時をふり返って、あのころといまとどれだけちがっているのだろうと思う。
私は、小さな川の上にかかる橋の上で、清らかに匂ってくる梅の香を感じた。そこに自梅が、その真白い花びらをいっぱいにつけて此方を向いていたからである。あの梅が香も、私がその昔、あのあたりを歩いたときには咲いていた梅だ。変わるようで変わらないのが人の世の常なのか、あるいは変わったもののなかになお変わらないものをみつめて、こうして生きているのが人生なのか。私は、何かこうしたところにくると、そのようなことを考えてみたりするのである。
この谷間の小道を奥へ奥へとたどってゆけば、それはやがて高雄にいたるアスファルトの道と合するのだが。
 嵐山といえば、私は河上肇を思い出す。
 屋形船瀬に浮ぶみゆ たゝかいの日とも思へず 古きみやこに
 それは第二次世界大戦がいよいよ終末に近づいて、アメリカ空軍の本土空襲が次第に激化しようとしていたときであった。学徒動員についで、女子挺身隊がつぎつぎに結成され、国内は戦争一色にぬりつぶされていた。その昭和19年の晩秋に、私は河上先生を友人太田義一君の山荘に案内したのである。そのときの歌が、はじめにかかげたものであった。
 尋ねきてやかたのかどにさにづらふ 紅葉の色にしばしたゝずむ
 戦いのさなかとはいえ、嵐山の紅葉は、つねにかわらぬ美しさをみせていた。私たちは、戦時の食糧難のなかで、まるで餓鬼のようにやせ細っていたが、しかしその紅葉の秋の日に照り映えるさまには、まだそれを美しとみて心をそこに遊ばせる余裕は残していた。これも河上先生の歌であるが、
 年を経し、老い木のかげに毛氈の みかきを占めて 山と対せし
 はらはらと落ちくる木の葉なかりせば 春のひと日とけふ思ふらむ
 私たちは、その広い庭の一隅に床几をおき、赤い毛氈をしいて茶をすすりながら、昔の思い出などを語ったのである。いまでも、あの河上先生が、瘠せた肩をいからせ気味にして、岩国時代の話や東京での生活を語られたのを昨日のことのように思い出す。
 この山荘のすぐ隣は、小督局の墓であった。道からはずれて、少し奥まったところにあるこの薄倖の美女の墓は、まるで忘れられたようにそこにあり、そこにすだくこうろぎの音のみが、私たちの関心をひいた。私どもは、そのこうろぎの音に、この激しい戦争のなかをひっそりと生きている私たちの運命を感じていたのである。
 秋ふかみ夕月さゆる嵐山 清き暮かな露のさぎらふ
 やはり、ここでも先生の歌の文句を思い出したほうがよい。私たちは、その太田君の山荘に夕月がさえるまでいたのである。すぐそこにのぞまれる渡月橋を、うすく川霧が流れてゆくのがみえた。
 天龍寺は、足利尊氏の信頼が厚かった僧疎石が、その尊氏を説いて、後醍醐天皇のために建立したものである。南北朝の対立で、吉野にのがれて尊氏方と戦い、ついに、都に還ることがかなわず、その山里に憤死された天皇後醍醐は、死後も「其神霊御憤り深して、国上に災を下し、禍を成され候」(太平記)というように思われていた。大宰府にながされて、はるかに都のかたをのぞみながら、そこに万斛の涙をのんで死んでいった菅原道真が、やがて雷神となって京都の空にあらわれ、かつての政敵たちのきもを驚かしたように、天皇の霊も、またその憤りを国土の上にぶちまけられたのであろう。しかしながら、それを今日的に解釈するならば、あの天龍寺の建立こそは、南朝と北朝の対立を平和裡に解決しようとする疎石のみごとな政治であったといってもよい。
 ともかくも、この寺は、そのようにしてつくられた巨大な規模をもつ禅苑であった。「仏殿、法堂、庫裏、僧堂、山門、総門、鐘楼、方丈、浴室、輪蔵、雲居庵、七十余年の寮舎、八十八四間の廊下まで」(太平記)そなえた大伽藍は、北は清涼寺、南は大堰川の対岸法輪寺、東は嵯峨野の芹川に及び、西は嵐山の一帯をふくんでいた。
 しかし、その巨大な寺院の相貌は、前後8回も火災をうけることによって次第に変わっていった。幕末には、蛤御門の戦いに参加した長州兵の一団が、その京都に押し入るためにここに陣をとったこともある。
 だが、幾変遷を経たにしても、あの疎石、すなわち夢窓国師がきずいた林泉だけは、当時の面影を伝えている。それは方丈のすぐうしろにある庭であるが、石の組み方といい、その池のたたずまいといい、夢窓の庭に対するきびしい追求のあとを残している。
 しかし私は、ただ何気なくその境内を歩くのが好きだ。まばらに生えた松の木々、その梢をすかして入ってくる庫裡の屋根の美しい線、そして白い壁、私たちは、ここに立っていると外の喧騒も忘れてしまう。
 「昨日、彦根にいったら、お城のまわりの草むらに土筆が生えていたので……」
といって、家内の母が一つまみほどの土筆を、卓の上に置いていった。「ああ、もう春がそこまできたのか」というつぶやきが、私の日から洩れた。私たちが、1分とか1秒とかいう時間に目を奪われて過ごしているあいだにも、自然は確実に時をきざんで大きな予定を狂わさないのである。そうした実感が、この一つまみの土筆の頭の部分にあった。
 そのような早春の気配が私を思いたたせたのか、私は、ふと嵯峨野のあたりを歩いてみてもいいなと考えた。桜は、まだ冬の姿のままであるにしても、野の草は枯葉をわけてもえ出ているにちがいない。そして、あの竹の林にあたる太陽も、やわらかい陽ざしとなってその薮のなかの明暗を気持ちよく浮かびたたせているであろう。嵯峨野は、何といっても竹林が印象的だ。
 そうして私がえらんだのが、大沢池のあたりから二尊院にかけての逍遥であった。私は、大沢池のほとりに自動車をとめた。そして、そこから池畔に出、左手の間をくぐって大覚寺の山内に入っていった。大沢池は、洞庭湖を模してつくったものといわれている。洞庭湖といえば私は、すぐに孟浩然の詩を思い出す。
 八月湖水平かなり。
 虚をひたして太清に混ず。
 気は蒸す雲夢の沢
 波は動かず岳陽城
という一節である。大陸の大詩人の感懐を、みずからの詩情に通わせて、そこに想念の美の世界をつくり出そうとする平安の貴族たちが、つくり出したこの池のたたずまい。それにはまたそれの情趣があった。この池の堤に咲く桜を後水庵桜というが、それはもちろん、冬の姿のままである。池には、2艘の舟があった。
 向こうのほうから花やかな笑い声が聞こえてきた。5、6人づれの女性が堤の向こうから歩いてきているのである。そのあたりに小さな護摩堂があった。私もまた、そのほうに歩をうつしていった。ふとそこをみると、野の仏があるのである。長い年月を雨風にさらされて、その顔はさだかではない。耳も日も、そして鼻も唇も、あるいは欠け、あるいはくずれおちている。おそらくは鎌倉時代ころの作品であろうが、しかし、そこににじみ出ている庶民的なものの哀歓は、場所が場所であるだけによけいに人々の注意をそこにひきつけるであろう。
 早春の光をあびた、その石の仏たちの前で、私はじっとそれをみつめていた。