鎌倉時代に栄西禅師や明恵上人によって臨済禅が、ついで道元によって曹洞禅が伝来され、それに従って臨済曽洞両宗の寺院の建立は次第に盛んとなり、南北朝時代前後には、鎌倉五山京都五山と言われるように、禅宗の宗風は京鎌倉に風靡することになった。それらの寺院は、禅宗特有の唐様をもって整然壮大なる七堂伽藍の配置を取ったが、応仁文明乱から打ち続く戦乱のために、その多くは失われて姿を消した。
 安土桃山時代を経て江戸時代になり、世上は漸く平和の曙光を仰ぎ初めたので、京洛禅刹復興も二、三ならず実現したが、それでも禅苑の完全なる伽藍形式を具備するには至らなかった。
 江戸時代初期に、別の経路から、大陸様式をもって、整然たる、左右対称形の、伽藍配置をとった禅苑が開基せられた。即ち、万福寺である。しかも、臨済曹洞両宗は宋代の古規によるものであったが、万福寺は明代の特色である禅浄混清の様相を帯びたものであるから、特色のある禅苑である。念佛禅と言われるもので、自力と他力とを併有した佛教である。万福寺はその上に、ラマ教の影響をも含んだものであるから、自ら伽藍配置にも独特の異色を有する。
 隠元、名は隆琦。中国、福州の人。明の万暦20年(わが文禄元年、1592)に生れた。俗姓林氏、世々詩書で知られた家である。父は徳龍、母は龔氏。その第三児である。父は隠元6歳のとき遠く楚に行きて帰らなかったので、家が次第に貧しくなり、10歳にして学問をやめ、労働して母を養うたが、並日陀落山で観音を拝したとき、志を立てて佛道に身を投じ、黄檗山の鑑源について剃髪した。父の行衛を祈願したのである。臨済の奥儀を究め、とうとう径山寺の費隠のあとをうけてその住持となった。その頃、明朝が外れ、満州から、起った清朝の時代になった。明朝の朔を奉じた清僧には、堪えられない世上であった。
 その頃、わが国の南蛮貿易も隆昌に赴き、中国から華僑のわが長崎に移住するもの彩多になった。長崎に興福寺、福済寺、崇福寺等を建て、中国から禅僧を招いて弔祭を乞うた。その寺院名を見ても、みな「福」の字をもってしておる。それは決して来世の極楽ではなく、現世の幸福であり、詮じ詰めれば、資金の獲得である。経済的な観念の厚いものであることは、注目すべきである。
 亡国の悲しみを味おうておった隠元に興福寺の逸然から招状が来た。第110代後光明天皇の承応3(1654)来朝した。興福寺に開堂し、崇福寺にも開堂した。その令名は京洛にもひびいた。妙心寺の龍渓禿翁、竺印らは隠元を妙心寺に迎えようとしたが、妙心寺内でも愚堂や大愚などの大反対があり、隠元の渡来は、中国の間諜ではないかとも言い触らされた。京都所司代板倉重宗を通じて幕府の老職酒井忠清、中老松平信綱らの賛助を得、明暦元年(1655)隠元を摂津国富田の普門寺に迎えた。妙心寺龍渓宗潜の寺である。
 普門寺におるときでも、明国の間諜であるという嫌疑はとけず、自由を奪われておったので、幾度か帰国の意を動かしたが、その度毎に龍渓になだめられて、翻意することも度々であった。やっと明暦2年7月になって京都、奈良、大坂、堺、大津の5ケ所で説法することが許された。
 妙心寺龍渓はわざわざ江戸に下って酒井忠勝に懇請すること極めて熱心であった。幕府も、隠元の東下を求めた。万治元年(1658)9月龍渓に伴われて江戸に下った。
 11月5代将軍綱吉に謁し、閣老らの信頼を博し、特に酒井忠勝の父忠利の33回忌の予修を営むまでに道交を得た。
 翌年忠勝に書を送って苦衷を訴えたので忠勝から将軍に隠元の志あるところを伝え、とうとう一寺建立の許可を得た。
 万治3年(1660)幕府から寺院として、かつて後陽成天皇の女御で後水尾天皇の生母であり、近衛家の出自である中和門院の別荘のあった土地を支給された。門院に仕えた文英尼の帰依をうけ、その口添えであったらしい。いまの寺地である。
 隠元は土木の工は今後多くの歳月を要するので、まずこの土地で開礎の式だけを挙げる事を幕府に乞い、万治3年5月8日その法要を勤行。範を明の様式にとることを定め、名を黄檗山万福寺と名づけた。万治の年号にも由来する寺号である。西方丈まず成り8月9日進山した。ここに臨曹二禅の外に黄檗禅の法幢が樹った。
 その弟子木庵性瑫、即非如一、千呆性侒、高泉性敦等の明僧は師と共に万福寺の完成に捨身の努力精進をもってし、幕府の援助、後水尾法皇の御帰依などが相重なりて、寛文3年(1663)1月15日隠元は祝国開堂の盛儀を虔修した。隠元時に72歳翌年法席を弟子の木庵に嗣がしめ松隠堂に退いた。
 寛文13年(1673)4月3日大光普照国師号を特賜され、83歳で登雲した。
 龕は中国風に、3年そのままにおかれ、延宝3年4月2日大祥日に寿塔に納めた。かねてから、この寿塔は弟子達によって営まれてあったものである。
 尓来、その法瞳は中国僧に限って嗣ぐこととなった。13世までつづいた。それ故に経文はすべて唐音で諷誦し、すべての法要から座禅の形式、袈裟衣斎食の料理すべて中国黄檗流である。法要に参加すると、その頗る異国調に何となく中国にあるかの思いがする。
 隠元伝が案外に長くなったので、ここで私見を一つ二つ加えてみたい。肩の凝りをほぐせれば望外の倖せである。
 その一。万福寺の寺地は、奈良と京都をつないだ線と越前加賀能登と紀州とを連絡する線の交錯するところで、醍醐寺の背中合せの裏側である。南都北嶺の勢力は、もう恐れるに足らないけれども、なお安心できないものがある。北越賀能と紀州雑賀の一向門徒、これまた南北から呼応すると、何をするか判らない。陰性であるが恐しい存在であり、少くとも幕府は警戒をゆるめるべきではない。
 豊公と極めて親密であった醍醐寺は山伏修験の本山である。吉野熊野の修験者を動かそうとするならば、立ちどころに動かせる醍醐寺である。山伏修験の隠れたる力は実もって恐しい。忍術隠密とまでは行かないにしても、全国を行脚しておる熊野聖や山伏修験僧は、何をするか、安心ならぬ。
 そうした社会の底辺にひそみ動くかも知れない宗教心の威力を、幕府は充分に知っておるはずである。
 その二。万福寺は、明僧の寺院であるから、その用材等悉く中国から運送されたチーク材である。長崎に在留する華僑の世話であろう。法具法衣すべてが中国からの輸入である。その事を掌ったのは伏見奉行小堀遠江守政一、その二代目の権十郎や、その配下の豪商下村正啓の活躍があるのではないか。下村正啓は後に桃山に「海宝寺」を建て、黄檗山下に加えておるが、「海宝」の名に対外貿易のありがたさが、隠されておるのでなかろうか。下村正啓の末孫が京都の大丸百貨店の創始者である。
 その三。当時は鎖国の時代であったから、対外貿易の許されるはずはないが、万福寺御用と言えば、どこかに禁を弛うされる特恵があったのではないか。清国文物がこの孔から流れ込むことはなかったか。寺家で法具法衣の用品として中国の織物を余分に輸入、横流しをするといったことはなかったか。無かったと信ずるが、あってもよいような気がする。
 中国は書道の国である。文人墨客の国である。中国僧の書は一風特別の格を備え、粛然泰然、自由自在の中に堅い一本の線がある。黄檗歴世の住持また能書家が多い。しかも、黄檗僧の書風は唐宋時代の墨蹟とは俄然、趣を異にして軽い。自由奔放というか、広い天地を墨汁で結びつけたかの充実した筆致である。額面狭しと筆を運んだ速さがある。
 黄檗では隠木即という。隠木高という人もある。黄檗流の名筆である。
 隠元。二世の木庵。隠元よりもさきに来朝し、隠元の教化をうけ、後に長崎の崇福寺で寂した即非如一。
 即非の代りに五世高泉を入れると隠木高となり、即非を除くことを惜しんで木即高という並べ方もある。
 万福寺に参入すると堂舎の掲額の外に、柱にかけてある聯の多いのに気づくであろう。実に軟かく、中国人に接するような胎蕩たるものがある。学んでおいてよい文字の高潔さである。
 「山門を出れば日本ぞ茶摘歌 菊舎」の句で知られる通り、黄檗山はすべてが明朝風であると言われて来たが、それは建物の配置とか構成とかが明朝風であるかも知れないが、建築の細部を研究すると、そうではないという学説もある。それを摘記してみる。
 中国式なものは①全体の伽藍配置、②大雄宝殿前の月台、生飯台、刹竿支柱、③半扉の桃戸、円窓、④諸堂内外の多数の聯、⑤総門などの棟にある摩喝羅等であるが、それに対して中国的ならぎるものを挙げると、①屋根全体の形、軒や棟や屋根面の反り、軒瓦の文様、鬼瓦の面相など、日本の寺と変らない。②妻飾も在来風である。軒における平行種、全体にわたる扇極も中国韓国にはない。③組物の木鼻の様式や絵様は日本の近代風である。
 それらを併考すると、中国風は部分的に適用されておるのであって、全体的には日本風であり、いわば日本風の細部ある中国風、と言うべきであろう。
 惟えば、当時の京都におった大工としては精一杯の苦心で中国風を加味しようとしたが、この程度以上に外国要素を組入れる腕は、なかったのであるまいか。需める方が無理であろう。

 男山八幡宮の参拝を終えて帰る時、三ノ鳥居のところで、登って来たときの道を捨てて、右手の細い山径に身を縮め樹下暗をくぐると、足許に群生する山藍がある。つややかな深緑色の、柔かい葉を、のびのびと伸ばしておる。絞れば、緑汁がしたたり落つるであろうみずみずしさである。
 この葉液で藍摺衣を摺り染めたのであろう。私も用箋にこの葉液を使って、紙型で、模様を摺り染めたことがあった。とても貴重な用箋であるから実に大切に大切に保存しておる。滅多に使わない。
 やがて山麓の小滝の所に出る。恐らく、この辺に滝本坊があったのであろう。これから訪れんとする松花堂は滝本坊昭乗の里坊であったので、この辺が、そのゆかりの地かと思うと、なつかしい。松花堂に行く途中、いまは人家の裏かげに、捨てて顧みられない荒塚がある。松花堂の前にある女郎花塚との間に、悲しき哀話がある。
 その昔、平城天皇の御代のことであった。八幡に小野頼風という人がおった。京都に妻をおいて、そこへ八幡から行き通うておった。ところがある時、約束の日に頼風が来ないので、妻はいぶかしく思って、八幡まで尋ねて来た。近頃、男には別の新しく契った女が出来たので、今夜も、その方へ通うて不在であった。妻は悲嘆の余り、男山の麓の放生川に身を投げた。
 頼風は妻が来たと聞いて、そのあとを追ったが、投身せる妻のむくろを見て、堪え切れぬ哀れさに、むくろを川辺に葬り、妻が、岸辺に脱ぎ残した山吹重ねの衣を、抱いて嘆いておると、それが朽ちて土に落ち、そこから女郎花が生えた。その花は恨みを含んだもので、この方に靡かないで彼方に靡いた。頼風やむなくそこを立ち去ろうとすると、女郎花が翁の姿にも見えたので、自責の念に堪え切れず、頼風も放生川に身を投じれた。
 時の人、この二人のために塚を築いた。それが頼風塚と女郎花塚である、と言う。
 謡曲「女郎花」を初め、諸書に記された物語であるが、どうやら、これは後世から仮託した作り話であるらしい。紀貫之の古今集の序文に「をとこ山のむかしを思ひいで、をみなへしのひとゝきを、くゆるにも、歌をいひてぞ、なぐさめける」といった句のあることから、誰かが思いついたことであろう。男山に咲く女郎花は、古来名高いものであって、その風情に都人の詩情が動かされたことが一つの因縁となって、この道往く人々に語り伝えられたのであろう。この塚のある道が東高野街道で、往反のしげかった要路である。
 男山の僧官に滝本坊昭乗というのがおった。天正12年(1584)南都に生れ、興福寺一乗院の諸太夫中沼氏に養われたが、一乗院の門跡尊勢が関白近衛前久と兄弟であった関係から、左大臣近衛信尹に仕えたこともあった。17歳にして男山に登り、その社僧となり、初めは鐘楼坊に居ったが、後に滝本坊に住持した。
 寛永年間滝本坊が焼失したので、弟子の乗淳に譲り、自らは「慢々」と号して、滝本坊の南方数町の地に、小庵を構え、松花堂と号した。
 書道に巧みであり、画筆も動き、華道歌道にも精通して、専ら風雅を友とした。その雅風を聞いて来往する文化人は、林羅山、石川丈山を初めとして木下長嘯子、佐川田昌俊、小堀遠江守正一、大徳寺玉室、江月、沢庵等の緇素各層に及んだ。早くから近衛前久について入木道(書道のこと)の奥秘を極め、本阿弥光悦、近衛信尹(三貌院)と並んで寛永三筆と称せられた。
 松花堂の庭は東車塚庭とも泉坊庭園とも称せられ、城陽一帯を眺め渡す豁達たる平庭で枯山水である。広々とした苔庭に飛石を配し、刈込も整い、全く紳士の庭である。垣、燈籠、手水鉢等、みな変化に富み、昭乗の苦心が充分に窺われる。味わえる庭。
 いまは個人の所有するところであるから、拝観は遠慮されたい。
 庭の北方に茶室「松花堂」がある。僅か方一間半、藁葺宝形造、二畳の茶席を中心に、次の間、水屋、土間がある。本来は持佛堂であったろう。
 正面に半間の床と袋棚、脇に半間の佛壇があり、一方は濡縁、佛壇の隣は半間の襖があって、次の間に通じる。
 土間には瓦を四半にしき、片方に竃があり、入口には双折両開の桟唐戸をつける。
 室の配置は極めて巧みで、周囲の佗びた露路庭と相応じて、たしかに茶席の中の優なるものである。
 松花堂と高野街道を隔てて西側に八角院がある。堂宇は正八角形ではない。方形の四隅を削り取って八角形にした珍しい建築で、豊臣秀頼の建造、頂上の露盤にその銘文がある。
 本尊阿弥陀如来座像の法量は、七尺ばかりの立派な本像である。順徳天皇の勅願に依り、建保年中(1213~18)の作という記録もあるが、その辺であろう。
 中品中生の珍しい印を結び大きな光背を後にした御姿は、一見したところ、肥満した外躯に圧迫される。側面に古い刀法もあるので、藤原時代かという説もあるが、しかし面相その他に、気塊に欠けておるところも見え、衣文も流暢というよりも力乏しいという難点があるので、建保の作とするのが穏当であるまいか。
 光背は特に壮麗である。光背の中に十三体の化佛をつけ、本尊と併して一光千佛と呼ばれる稀に見る雄品である。十三佛は後補と見たのは僻目か。
 本堂はもと男山の中腹にあったもので、元三大師堂と相並んで建っておったが、明治元年の神佛分離に際して取払いの運命にあった。そのとき男山八幡宮護国寺が持っておった宋版一切経は代金850両で江戸町人某が購入し、八角堂とその本尊阿弥陀如来とは、山下にあった正法寺住職志水円阿氏が購入して現在地に移建したのである。
 嘘のような本当の話。
 この地点に高野街道を挟んで2基の古墳がある。東車塚、西車塚と言われる。両者ともに前方後円墳である上に、大きさもほぼ等しい。
 文化年間、この里に住む小右衛門と儀右衛門という二人が、俚人の止めるをきかず、東車塚に蒼々と生い繁っておった樹木を伐り初めた。その夜両人並びに関与した一同は、原因不明の病気に犯された。墳墓をあばいた祟りであると、深く懺悔し、小祠を塚上に建てて謝罪した。
 営造以来千数百年、その外容内部構造すべてを完全に保存されておった両車塚も、東塚は明治24年個人有となり、その邸宅の造営に際し、潰され、西塚は明治36年にその中心部が発掘せられ、幾十点かの内蔵物が日光の許にさらされ、且つ各地に分散所有された。その中の一面。京都大学の所有する長宜子孫鏡は破砕されておるが、内行花紋の痕址も明らかに認められ、製作年代は中国の後漢であるから、わが国で言うならば応神朝仁徳朝に相当するものである。その頃、この地方を支配した有力者の奥津城であった。
 両車塚の発掘品は殆ど東京国立博物館に収蔵されたのは、不幸中の幸であった。

 伝教大師最澄が比叡の山中に寺地を構えたことには、いろいろの必要があってのことであろう。天台の宗旨が、佛者は必ず俗塵を避けて、僧侶の持戒律法堅持に主眼を置いたものであったから、かも知れない。南都佛教の余りの俗化―というよりも度を超した醜猥さに唾棄して、幽谷において、浄業を全うせんとした至念に基づいたものであることは、疑いを容れない。古来、叡山では、「三ン」といって、「論」「寒」「貧」をもって一種の旗印とした。一種の誇りとしておったのであった。天台宗学が学問の探求には、頗る真摯であったことが知られよう。そうするためには、山上では内典関係ならば充分の学匠もおり、学究者もおったであろうから、目的は達せられたであろうが、外籍関係の方面においては、そうは行かぬ。何と言っても宮中や大学を中心とする碩学鴻儒には、遠く及ばない。
 そこに叡山学の一つの悩みがあった。
 叡山に植えられ、芽生えた天台宗は、学問を主とする学僧と、浄業持戒を主とする律僧との、二派に分けて考えることが出来る。加持祈祷によって国家安泰を求めうべしとして、自ら戒業に慎み、苦行に身を委ねる律僧は、身体の練行に、その道光を求めんとした業僧である。それに対する学僧の方では、教学の論究に中心をおき、学問思想によって世界平和を導き出さんとして、律僧をとかく軽視する趣があった。
 山は何と言っても「論」が中心である。
 内典外籍に亘りて学徳をつむことの方に、三麻耶戒を修するよりも魅力があった。それ故に、若き山僧達は山上における学問をもって足れりとせず、洛中洛外の智識者を訪ね、汎ねく学問の分野に立ち向わんとする意欲を持った。
 四明岳より正西面に降下する雲母坂は、極めて急斜であるけれども、西坂本までの道は近かった。20町にして麓に達した。一乗寺村修学院村はその条件から生れた衆落であった。殊に修学院には、その名の示すように、京洛に降りて修学する学僧の止宿すべき精舎が建てられた。それが「修学院」であった。平安中期一條天皇の御宇には、出来ておったらしい。
 併し、叡山の宗教も時の流れと共に、固定し形式化して、山僧が誇持しておった一種の信念にも、狂いが生れた。何となれば、叡山には天下の俊英が蝟集したし、一国の俊才が仰望した天台宗の世界があった。そしてそれは、学僧自身の精進研学によるものであるべきであるにも拘らず、どうしても皇親公卿貴族の出身者が羽振りをきかす宿痢が芽を吹いた。士庶の出身者には、上位上階に達することは、高き堅き壁であった。天台座主は皇親か摂関家の御曹子でなければ昇れない。少くともその背後に優勢なる後援者を持たなければ、住持は勤まらぬこととなった。
 天台宗が民衆の教化を忘れたとは思わないが、創始者の悲願からはずれて、貴族の宗教化し、貴顕の鼻息を窺うようになっては、有為なる青年僧、敢為な献身僧からは、見放される。山僧の多くは勝れた宗教家になることよりも、一通りの形式を習得して、生涯の安逸の糧にすることで満足した。満足せざるを得なかった。
 寒風極暑を冒して雲母坂の急攀路を喘ぎ、学問修業に身を委ねる者は、月日のたつに従って消え失せた。修学院の用途はその実を失うた。堂舎は傾斜した。その名はただ地名として長く残るにすぎなかった。
 室町時代戦国時代の度を超えた政界の乱脈は、皇室をして式微の極に陥れ、将軍家あることを知っても、禁裡のあることを知らぬ者が、国内に充満した。政治の支配権を掌握しておる武士の眼中には、将軍の柳営や守護の陣所はあっても、禁廷の存在はなかった。
 その余りに痛々しい宮廷の有様を見て、心を傷めたのは、民衆であった。朝廷と民衆とは、却って直接に掌を繋ぎあい、武家階級の存在を拒否しようとする傾向が見えた。
 第104代後柏原天皇(第50代桓武天皇を柏原天皇ともいう)、第105代後奈良天皇(第51代平城天皇を奈良天皇とも呼ぶ)の諡号に、1500年代に生きた人々が、700年代から800年代に亘る平安初期を憬れたことが暗示されておるのであろう。摂関家は未だ現われず、武士もまだ勃興せず、万民は禁裡に直隷した王朝国家の時代を、平安時代初期を、仰ぎ見たのであった。
 それに呼応して後土御門天皇以降の天皇は、御親写の古鈔本等の奥に「従神武百余代孫―仁」と宸署されることがある。神武天皇の国家創立を偲び、その直継者たる天皇の尊貴を呼号されたのであった。何となく武家階級の排斥を培う思想である。
 後奈良天皇が『般若心経』を宸筆で親写され、全日本の国々に虔納して、悪疫消滅五穀豊饒を祈願されたのは、天皇の聖謨として語り知らされておる有名な歴史であるが、それを裏返して考えて見ると(史料に即して見ると)、諸国に散在する富裕者に、それに相当する献金を需めておられる様子があって、所詮は、御内帑の苦衷を救わんとされる大御心でもあったらしい。
 後奈良天皇の『般若心経』御親写の事件は、宮中の御窮迫を、それとなぐ察知した諸国の豪祐や地方の住民をして、一種の勤王心を湧かさすための誘い水のような役目を果すことになった。東西南北草莽の臣には、勤王の志が萌え初めた。戦国の群雄の中にあって、何らかの意味で一頭地を抜いておる優秀者は、天下の覇者たらんとするものは、「勤王」の旗印を掲げることが必要であることを知っておった。織田信長の勇名が急に近畿の明星として輝き初めたのは、信長が禁裡に接近する機会を握ったからであった。信長が入洛するや最初に御苑の築地を修理し奉った。それによって湧いた信長の令名は、美しい光輝をもって万民の耳朶にひびきを与えた。天下の覇者たるべき第一人者は織田弾正忠信長であろうと期待されるに到った。
 織田信長は右大臣であった。豊臣秀吉とても「関白」であった。徳川家康は内大臣であり、前田利家は大納言であった。何れも宮中に奉仕する文官としての所遇でしかなかった。それが安土桃山時代の皇室の聖願であり、万民の希願であり、歴史の流れであった。天皇親政の王朝時代を出現したかったのである。
 正親町天皇は織田信長に対しても豊臣秀吉に向っても、決して征夷大将軍には任命されなかった。彼等武将とても、天皇の大政を奉賛する文官にすぎなかった。
 ところが徳川家康は関ケ原合戦で勝盃を手にすると、直ちに江戸に本拠を堅め、軍政府を置き、征夷大将軍たらんことを強望し、慶長8年(1603)2月12日内大臣から右大臣に転任すると同時に、征夷大将軍の大命を受けてしまった。ここに、足利幕府に代って徳川氏の幕府が現われた。これは決して後陽成天皇の御意に基づいた任命ではない。折角に醸し出されておった禁裡を中心とする政策は、見事に破られて了った。朝廷に不満不穏の風が吹いた。京都と江戸との間に、何となく空気の傾斜が見え初めた。
 その上にもう一つ、思いがけない大きな嵐が吹いた。元和6年(1620)6月将軍秀忠の女和子が、後水尾天皇の中宮として入内したことであった。
 複雑なる裏面の策動もあったであろうが、表面的には、公武御和親の表職であるかに巧みに見せかけた。その半面に、深い渠が介在することは自明である。
 いま京都御所に秘蔵されておる御調度品の中に三葉葵の定紋を打った金具に飾られておる屏風を初めとして、数々の御品々がある。この三葉葵の定紋を打ちたる調度を、天皇の御座所に飾り附ける殿掌らは、どのような気持であったろうか。その調度で飾られた宮殿に出入する三公九卿は、どのような心構えで、三葉葵を眺めたか。
 東福門院和子の貴き淑徳は、結局は後水尾天皇の宸慮をなごめ奉って、平和の朝日夕日が宮中に射し込んだけれども、後水尾天皇の幕府に対する宸慮の底には、消えない一点があったかも知れない。将に燃え出さんとして燻りに燻ったものであったのではないか。
 後水尾天皇の遺し給うた宸翰中に、帝王として書くべき文字でないものを書いておられるものが、二三ならずある。御不満の御心中の爆発口であったかも知れない。
 こうした宮中府中の傾斜を正常化しようとして幕府は御譲位後の後水尾上皇の御憩の荘苑として、修学院山荘を新構し奉らんことを奏上した。

 太秦といえば映画撮影所の多い地域だ。かつては帰化人・秦(はた)氏の―族が、ここを根拠地にして農耕や養蚕を行なった歴史の跡。首長河勝が聖徳太子の遺志をついで創建した広隆寺はこの街中の一角にあり、修学旅行の生徒でいつもにぎわっている。国宝第一号の弥勒菩薩半跏思惟像はあまりにも有名だ。
 ところで、10月12日の夜─すでに秋も冷えそめたこの寺で行われる牛祭は、数ある京の祭りの中でも、ミステリアスなムードに溢れていて一見に価する。
 8時。太秦の町民が高張提灯をかかげて、都大路を練り始める。やがてこの行列は式場となっている広隆寺境内の大避神社へ入ってくる。夜空を染めるかがり火に、まず先頭の牛にのった摩多羅神が目に入る。白の束帯姿で顔に被っているのは、白く塗られた異相の童子面。赤青の鬼面をつけた四天王がその後に従っている。
 祭文が長々と読みあげられるが、その内容は全く理解できないにも拘らず、観衆は小一時間ほども、その祭文に聴き入っている。そして時々、「もひとつ」などと野次をとばす。実にのんびりしたものだ。
 祭文の結びは「無能女の隣ありき 又は堂塔の桧皮喰ひぬく大鳥小鳥め 聖教破る大鼡小鼡め 田の嶹うつがごろもち如此において永く遠く根の国そこの国まではらひしりぞくべきものなり」とあるのだそうだ。何とも奇々怪々。
 祭文が終ると、唐突に神と四鬼とが祖師堂に駈けこんで、あっけなくフィナーレ。ちょうど11時ごろだ。雑踏する境内は露天の灯が祭の花やぐムードをかきたてる。カガリ火の明りに夜目にも青く、境内の樹々が仰がれて京の夜空の星がまたたく。まるで幼ない日への郷愁を誘うようだ。
 交通は京都バス太子前又は市バス右京区役所前下車すぐ又は京福電鉄嵐山線太秦下車、徒歩5分。

 花咲かば 告げんといいし山里の 使いは来たり馬に鞍 鞍馬の山のうずざぐら…
 謡曲「鞍馬天狗」で名高い雲珠桜はうすい紅色大輪の八重。花形が雲珠という唐鞍の飾りに似ているのでこの名があるという。由緒は古めかしいが、まあまあ普通の山桜。
 しかしこれが、海抜569メートル、全山杉と桧にうっそうとおおわれた鞍馬山の中腹にかけて点々と咲き誇るころは、緑と紅がたがいに相映じて壮観である。八重桜の特性でこの花も時期がおそい。満開は4月20日ごろ。鞍馬の花まつりはこのころ行なわれる。
 鞍馬山の東側斜面には鞍馬仏教の大本山鞍馬寺の堂塔が立ち並ぶ。正式には松尾山金剛寿命院。奈良時代の宝亀元年(770)南都唐招提寺の鑑禎上人の開基というから京都の寺でも最も古い。場所が場所だけに王城鎮護の霊場として古来伝説が多い。牛若丸こと源義経がここで修行したのは余りにも有名だが、京都市内から12キロ、昼なお暗い杉の密林を縫った難路だから高ゲタばきで毎夜千人斬りに市内へ出かけるのは、いかに身の軽い牛若丸にしても、さぞかし難儀なことであったろう。
 なにしろ辺鄙きわまる霊場だから、戦前はともかく、戦後は寺の経営もラクでなく、やり手で有名な現管長信楽香雲師はいろんな宗教行事を案出し、演出し、成功した。境内由岐神社の例祭「鞍馬の火祭り」(10月22日)や山法師が青竹切りの腕をきそう「竹伐り会式」(6月20日)は古来有名だが、さいきんでは満月の深夜全山を火の海と化す「ウエサク祭り」が有名になった
「花まつり」もこうしたアプレ行事だが、場所が場所だけに優雅閑寂なムード満点。名物雲珠桜が満開になる4月下旬(年によって日が違う)全山で3日間の祭り行事がくりひろげられる。独特の壮厳さと多分に幻想的ふん囲気を持った法要があり、舞殿では能楽、筝曲、今様、舞踊などが市内有志芸能人によって奉納される。また寝殿を開放、国宝毘沙門天立像、吉祥天立像、紙本墨書鞍馬寺文書、鞍馬寺経塚遺物など数多い国宝什物を展示する。
「花まつり」そのものは地味なもので、俗な花やかさはないから、そのつもりで期待して行くとアテがはずれる。ただ全山目のさめるような新緑のなかに、ここかしこポカッポカッと群がり咲いているうす色の雲珠桜は、まことに耐えがたい風情を持っている。
 京福電鉄鞍馬線「鞍馬」駅下車、本堂まで登路800m。途中「枕草子」で有名な九折坂の名所があり、与謝野寛・晶子の詩碑や江戸時代の石卒塔婆が風趣を添える。雲珠桜はこのあたりでも眺められる。山ろくから本堂近くまでケーブルカーもあるが、花まつり参拝には歩く方がもちろん気分が出る。舞台のお琴を聞きながら、目の下の桜とはるか京都市街の眺望を楽しむ気分は また格別だ。

 宝鏡寺の門前を東のほうにすすむと、小さな川が流れていて、その上に古びた石の橋がかかっている。いかにも昔風で、素朴だがどっしりと落ちついた橋だ。橋の下を流れる水がもっと美しかったらなおよいのだが、100万の人口がすんでいる都市だから、その一隅といったところで、私の思うように清らかな水は流れてくれない。
 しかしながら、このあたりの町の風情は実によい。いかにも京都らしい奥床しさのただよっている風景だ。その小川を石橋のところで折れて、数十歩さかのぼってゆくと、本法寺の門がみえてくる。
 その本法寺の楼門に至るまでに、私たちは、すばらしい門の入り口が、その道に沿って二つも此方を向いて開いているのをみることができるであろう。不審庵と今日庵である。だが、私は、それぞれに気品と格式を持つ二つの門であるとしても、今日庵の入り口にあたる兜門には最も心をひかれるものをもつ。いかにも宗旦らしい佗びの精神がにじみ出た門だ。その門は、それでありながら、周囲の風景のなかで決して異質のものではない。
 その門を入ると、玄関まで石を敷きつめた道がある。年を経たと思われる松の木の下の熊笹が、いかにも山里の感じを与えてくれる。山寺に、都塵を避けてすむ風雅の人を訪ねる気持ちとは、このようなものだろうかと、ふと考えてみたくなるようなあたりのたたずまいだ。
 ここは、裏千家四代の人であった宗旦が、金沢の仕えを辞して帰洛、茶室の修理や増築にあたって、今日の基礎をつくり出したところであった。いま、そこを訪れると、それは利休の茶室をそのままに復元したと思われる又隠や今日庵を中心として、寒雲亭、無色軒、咄々斎、溜精軒、抛筌斎、対流軒等々の新旧大小さまざまの趣好をこらした茶室がつらなり、そしていちばん奥まったところに、茶聖利休をまつった利休堂が静かな香の匂をふくんであるのであった。
 私は、2月27日、利休忌をひかえてのいちばん忙しい日に、今日庵を訪れたことがある。何人かの人々がその準備に忙殺されている姿をみた。しかし、静かなのである。頭をさげてゆきちがう人の衣ずれの音が、どこかに消えてゆくと、それはすぐ、何百年の伝統を思わせる静寂に立ちかえる。この静寂の世界、それはいったい何なのであろう。
 そうだ、ここでは、静寂そのものが、一つの美的要素につらなっている。谷崎潤一郎がたたえた、あの陰翳の美だ。さんさんと太陽が照る光の下での美ではなくて、それを何ものかでさえぎったときにあらわれてくる、かげりのなかの美である。それは、ただ暗いなかにあるのではない。適度な広さ、あるいは狭さかもしれぬが、その範囲に設けられた障子をとおして、しかもその白い和紙をとおしてくる外界の光、それが織りなすかげりの世界が、そのままここの全体を一つの思想、一つの美意識で統一している。私は、そのとき茶室のなかで、そのかげりの美学をしきりに考えているのであった。
北野のあたりは、古い京都がところどころに顔を出している。天満宮に参詣する人たちが、そこで一服の茶を所望したり、あるいは、家への土産をととのえるために立ち寄ったであろう粟餅やあんころ餅を売る店。また、ふとまぎれ込んで、ぐるぐるまわっているうちに出会った上七軒のいかにも由緒あり気なお茶屋のたたずまい。低い屋並みのつづくところで、バッタン、バッタンとひびいてくる手機の音。
以前は、ここにやってくるのに、向かいあってすわれば向かいの人と膝がつかえるように小さくて、幅のせまい電車があった。車掌が足もとの金具を靴の底で力いっぱいにふみつけると、チン、チンと音がして、これが警笛の役目をつとめた。その電車は、紫の水の流れる堀川の岸に沿いながら走って、伊藤仁斎の古義堂の前を通り、西陣京極の繁華街をぬけて、そして、そのあたりが五番町の廓だったな、などと思い浮かべながら、ゆっくりまわって、ここ天満宮の終点にまできた。電車の運転台をみると、1800何年、ロンドン、ルュック・ケル・コンパニーと書いてあった。百年も前の電車が、つい先年まで走っていたのである。そして、北野は、その電車にふさわしく古い感じがあった。
北野といえば、もちろん、あの天満宮に詣らなければならない。菅原道真が大宰府に没してそのあと、すぐにここにその霊を請じられてできたのがこの神社であった。由治比の文子とかいう、今日でいえば新興宗教の教祖のような女がいて、それが道真をここにまつらせてしまったのだ。道真の霊は、文弱の徒に似合わず、雷となって京都の空を走りまわり、その空の下の住民たちをふるいあがらせていた。そしてさらに、文子なる神おろし女
にのりうつったのである。
迷信ぶかい当時の人たちは、道真をまつることで諸々の災害をまぬがれようとした。そして天神信仰は、一般の人々のものとなっていたのである。憤怒を相をあらわした道真、すなわち天神の像は、恐れかしこむべき神の姿として人々の前にあった。文弱の神では、その効験は知れているのである。
それはともかく、今日の建物は、豊臣秀頼によって寄進されたものだった。入りくんだ屋根の構造、その下の美しく彩色されたいかにも桃山時代らしい彫刻、北野天満宮はやはり日本建築の代表的な作品の一つだ。
天満宮の参道には、銅でつくられた大きな牛の像が献納されている。いかにも田舎くさい趣味であるが、このあたりがかつて田園のただなかであり、北野天神が農業神にも関係があるとしたら、それもまた理解できないではない。
 大徳寺の本坊のすぐ背後のところに真珠庵と大仙院がある。両方ともりっぱな庭園をもつことで有名であるが、真珠庵のほうは、まるで真珠貝がそのなかの珠を惜しむかのようにしっかりと抱いて口をあけようとしない。
 しかし、大仙院のほうはまったく対照的だ。誰にでもみせてくれる。何も勿体ぶることはないではないか、いいものはどんなにみてもいいものだ、さあ、自由にみてゆきなさいといった恰好である。そして和尚は、せっせと大徳寺納豆の味噌を練っている。ここの大徳寺納豆は、茶にも酒にもいける。
 だから、私も大仙院には、たいへん入りやすい気持ちになる。入りやすいからといって、ここの庭を甘くみてはいけない。ここの庭は、おそらくはこの寺の開基古嶽宗旦の意匠になるものであろうが、飛びぬけた傑作である。石庭も、これまで幾つかみてきたが、これほど格調の高いものは少ないであろう。庭は、玄関をあがって左にいったところにある。狭い空間だ。白砂をしきつめて、北から南に流れる河をあらわしているが、そこの低い縁側にすわって、じっと目をこらしていると、その狭い空間が、やがて広大な景色に変わってゆくのだ。東北の隅に立てられた滝の石組は、とうとうと飛沫をとばして落ちてくる水の勢をみせはじめる。その前にかけられた橋を思わせる石組が、さあここに立ってご覧なさいと誘いかけるようだ。水は奔って私たちの足もとにまでせまってくる。
 沈復という人が書いた『浮生六記』という本がある。そのなかで、庭をたたんで観念の世界に遊ぶさまが描写されているが、まさにこの大仙院の庭は、その観念の世界の最も高尚な遊びをあらわす。
 古嶽宗旦という和尚は、たいへんな傑物であったらしい。「大機大用発すれば、臨済徳山一人として之に列ぶものなし」といわれたほどの人であるから、禅の奥義をもきわめていた人であろう。しかし、この庭は、いわゆる天馬空をゆくといった表現ではない。きわめて真面目な表現である。じっくりと考えて、一つ一つを手にとって、その感触の深さを思いながら並べていった石組だ。
 ここの縁側にすわっていると、私たちは時のたつのを忘れている。しかし、目を転じて、本堂のなかをみると、そこにはまた相阿弥の筆になるふすま絵が残されている。いかにも神韻渺渺たる絵である。以前はこの絵などから考えて、ここの庭を相阿弥作と考えるものもあった。入り口の説明では、そのようなことも書かれているようだ。しかし、私はやはり古嶽宗旦を考えたい。
 角屋が揚屋であるならば、輪違屋はまさしく置屋である。ここは多くの太夫や天神などが起居を共にしていたところであった。私は、いつかこの島原を見物しているとき、ふとここの入り口に立ったことがある。軒の外燈は、明治風のものだったが、その円輪を二つ重ねて少しくちがわせた大きな紋のある暖簾の間から、いかにも昔風の玄関がのぞかれた。式台の反対の側には、大きな二間柄の傘がたたんでさしかけてあり、その下には古ぼけた長持が4つばかり並べてあった。思わずつり込まれて中へ入ってゆくと、そこは通り庭になって、台所らしきものがあり、この広い板の間の隅っこに、障子紙をはった帳場が、うす暗い行燈の灯に照らし出されているのである。
 島原にはまだこのようなところが残っているのだな、と私は深い感懐におそわれた。しかし、そのときはまだ立ち入って部屋のなかをみせてもらうところまではゆかなかった。そこの人と一言、二言かわして、玄関を出ていったのである。
 その後、私は、今度は正式に頼んでみた。そして部屋にあげてもらったのである。階段の横にある輪違の暖簾は、いかにも斬新な模様にみえた。その下をくぐってゆくと、そこが座敷になっている。部屋の全体が、どこかくすぼって暗い感じがあるのは、やはり蝋燭をたく灯りのせいだった。壁に一面にはり紙がしてある。よくみるとなかなかの達筆で、何か歌のようなものが書かれている。太夫が手習の字を練習し、そして和歌の勉強をしたあとだそうだ。
 吉野太夫などという名妓を出した廓のことである。書も歌も、香も茶も、そしてまた花を生けることはもちろん、すべて彼女らの教養として身についたものでなければならない。それでなければ、一流の太夫にはなれなかったというが、この輪違屋にきてみると、やはりそれはほんとうのことだったと思う。その筆蹟のごとき、なかなかのものがある。
 横のほうに一枚の屏風があった。近藤勇の書がいっぱいに書かれている。壬生の屯所からほど遠くないこの場所は、あの新選組の隊長をしばしばこの部屋で遊ばせたのである。鹿瓜らしく、肉太の字で、漢詩など書き残していった近藤勇という人間も、やはり転換期を生きる一個の人間として、彼の刃に立ち向がった勤王の志士たちとそのように異なった人格ではなかったのであろう。
 梯子段をあがって、上の部屋にゆくと、行燈のはめこめられた壁に紅葉が散らしてあったり、竹骨からはずされた円形の大きな傘紙が、そのままふすまいっぱいにはりつけられていたりする。そのような部屋がひかえていた。昔の太夫の部屋は、それにつづくあまり大きくない居間だった。
 遊びのない文化などというものは、おおよそ無味乾燥なものである。中世的な宗教の世界が、官能の世界をひどく罪悪視してから、何か鹿瓜らしいものにほんとうの意味があるような風潮ができた。貧乏が美徳で、奢侈が悪だというのも、わが国の封建時代以来の支配者の原理であった。
 だから、美服をまとった女がかしずき、歌舞音曲に心を遊ばせる遊里の世界は、最も堕落したものとして、一般の社会とは隔絶したところになければならなかった。島原の前身が、二条柳町から、六条三筋町に移され、さらに遠く御土居の外の朱雀野にまで追い払われたのはそのためである。
 しかしながら、当時の富裕な町人たちは、遊里にこそ、ほんとうの心のなぐさめのあることをみい出していた。格式にしばられ、身分に圧しつけられて、どこにも魂の自由がなかった彼らは、その遊びの疎外された場所においてのみ、心の平安と自由をとりもどすことがきたのである。遊びのなかにほんとうの美をみつめることもできたのであった。
 それでなくして、どうして、あの本阿弥光悦とか灰屋紹益のような人がそこで日常を遊びで暮らすであろう。また西鶴のような人間が、そこを美の極致としてえがき出すことができるであろうか。徳川時代の芸術とか文化とかいうものを考える場合、私は、こうした遊びのなかにこそ、ほんとうの文化らしいものが発展していっているようにも考える。
 島原には置屋と揚屋があった。その揚屋のなかで最も高い格式をほこったのが角屋だった。この建物は、後の時代の大修理をうけているという。しかし、いまそのなかへ一歩足をふみいれるとそれは、まったく寛永のころの面影を残している。京都の町人が、まだあの自由で活達な気分を忘れなかったころの雰囲気だ。網代の間。翠簾の間、孔雀の間、八景の間、桧垣の間や緞子の間など、そして青貝をちりばめた青貝の間、そこにあらわれた意匠の冴え、豪華さ、それはまた桂離宮などの設計にも通ずるものをもっている。
 いまは、蝋燭の灯りや行燈の油によって、ずいぶんうすぐらくくすぼっているけれども、この意匠をこうした座敷で、才色並びなき美女とうたわれた吉野大夫がじっと人待ち顔にすわった姿はどうであったろう。灰屋紹益と近衛信尋が、吉野をめぐって恋を争ったというのも、こうした雰囲気のなかである。あの謹厳無比なるごとき儒者の一人、貝原益軒もここで小紫太夫に逢い、しばしば文通をかわしていた。その後、この地を訪れた滝沢馬琴は、島原の衰頽を記しながら、角屋にだけは「角屋徳右ヱ門が座舗庭等最よし、この庭の松甚よろし」などと書き残している。