昭和の京都を女子大生の視点で見たノンフィクションに高野悦子「二十歳の原点」がある。著者は1969年3月に嵐山の下宿から広沢池までサイクリングで訪れているが、このコースはみやびやかな平安朝へいざなってくれる。
 古への人は汀に影たえて 月のみ澄める広沢の池
 源三位頼政が月を訪ねて広沢池のほとりでよんだ歌である。私も幾度か、名月の夜を広沢池のほとりで過ごしたことがあった。以前、自動車の少なかったころ、鳴滝の友人のところで盃を傾け、興に乗じてあの池のボートにのろうということになり、そこからここまで歩いてきたこともある。そのころは、いくら月が美しいとはいえ、このあたりにまでやってくるというのはよほどの風流人であっただろう。
 この池のほとりは秋も早く訪れてくるように、草の根に鳴く虫の声はまるで降るようであった。桜の並み木が暗いかげをつくる堤防の上を歩いてゆくと、すぐそこに月の光をうけて水の面が白く青く光っている。前方にあたって池の面につき出ている小さな島のようなところは、さすがに昔、宇多帝の孫にあたられる寛朝僧正が営んだ遍照寺の庭園を思わせる場所であるが、人っ子一人いないそのあたりと風景は、まったく「古への人は汀に影たえて」という頼政の歌をそのままの実感とした。
 私はその夜、友人としたたかに酌みかわし、平安の昔から、この池の月を賞した数々の文人の心を思うた。あたりの山々が低いので、月はいつまでもいつまでもこの池のほとりを去らないのである。
 名月や 池をめぐりて 夜もすがら
 芭蕉の有名な句であるが、この池の句としても少しもおかしくないのである。いや、むしろこの池のほとりにも遊んだという芭蕉の思い出のようなものではなかったか。その句が江戸でつくられたということを思うても、なお、そのような考えが浮かんでくるような池の名月であった。
 それから幾度か、この池を訪れるようになった。遠方から客があって、月の明るい夜などは、ふとこの池に案内してみたくなる。私の言葉は、いつもこうだった。「おいきみ、平安朝の月をみにゆかないか」……
 そして自動車を走らせて、この堤防の上にやってくるのだ。それは、昔、鳴滝からてくてくと歩いてきたあのときのような、もっと純粋の観賞ではないが、それでも人々はやはり平安の昔を思う。あたりに人がざわざわと歩いていても、「月のみ澄める広沢の池」がそこにあることが無暗にうれしいのだ。
 都卒天という浄土にすんで、やがて56億7000万年ののちに、この地上に降りてくる。釈迦の救いに洩れた人々を救うためだということになっている。その仏、すなわち弥勒菩薩の姿を、いまこの目で確かめておきたい。そのような願いが多くの人々の頭を支配したことがあった。中宮寺やこの広隆寺の弥勒菩薩像がきざまれたのは、そのような時代のことである。
 釈迦の入寂後まだ末法の世にも達していなかった時代だから、音の人はずいぶん性急であったのだろう。『今昔物語』には、叡山の無動寺の僧が比良山の西の葛川で滝にうたれて行をして、不動明王に祈って、ついに都卒天まで連れていってもらったという話がのっている。その僧は、名を相応といった。江州は浅井郡の名家櫟井氏に生まれて、17歳で出家した高徳の僧だったという。
 そうした弥勒の信仰が、あの菩薩像をつくったというのであるが、しかしそれにしても何と清潔な美しさにみちた仏像であろうか。それはまだ、都卒天で静かに遠い未来を考えているのであるから、動的な救いをあらわしてはいない。どうしたら、すべての衆生が救えるだろうかと、優しい微笑をたたえて、じっと思索にふけっているのだ。
 それにくらべるとそのころの釈迦の像などというのは、もっともっと力がある。清も濁も、すべて一流れにしてのみこむぞといった感じである。成熟して、世間のことを知りつくした親分のような貫録をもっている。
 しかし、この弥勒は、何とまだ清純な気がするではないか。地上にはびこる権力も知らなければ、そこに渦まく人間の欲の葛藤も知らない。ただ、思索のなかでほほえみ、無限の時を、時とも感ぜず過ごしているだけである。
 心もち前にかしげた顔、その頬のあたりを、軽くささえるようにさしだした手、そして指、目は幽かにとじて、口のあたりに微笑がともなう。足は、そのすんなりした胴の下で片足を組んだ半迦の姿になっている。誇張もなければ、ことさらな理窟もない。ただ、あるがままの美しさだ。
 弥勒、弥勒、みろく菩薩よ。
 仁和寺は、宇多天皇が落飾ののち入られてから、約1000年、法親王相承の寺としてつづいてきた。幕末に征東大将軍として、江戸に向かった小松宮彰仁親王も、この寺に純仁法親王としておられたことがある。その江戸東征にあたって急ぎつくられた錦の御旗というものは、この寺から出たという。
仁和寺が御室御所といわれるようになったのも、そうした皇室と縁の深いところからきていた。昔は、なかなか庶民の近づき得なかったところだ。街道に沿って建つ総門の堂々たる威容が何よりもそれを示していた。その門を入って左手にある拝観受付の玄関にしても、どこか寄りつきにくい折目の正しさが感ぜられる。
 もちろん、それは一つの感想であろう。この仁和寺とて『徒然草』によるならば酒興に足鼎を冠って躍り、それが脱げなくて、とうとう無理矢理にとったので耳と鼻がとれてしまったという、きまりのわるい僧侶や、わざわざ男山八幡まで詣でて、下の寺を拝んで、やれやれこれで日ごろの念願を達したが、どうして人々は山の上にのぼるんだろうといぶかりながら、自分はそこだけで帰ってしまったという、いささか滑稽な僧侶などもすんでいたのである。
 さて私たちは、中門に向かう。この中門もなかなかよい。がっちりとした感じのなかに、どこか優雅なところがある。その朱塗りの色が、背後の山の緑のなかに浮きあがっている。門を入ると、左手に五重の塔がある。左は、枝の低く横にはった桜の林だ。京都ではいちばん遅く咲く桜だが、それだけにその季節にこの場所を訪れる人が多い。そして昔は、この桜の下で花見の客がいっぱいに酒宴をはったところだった。
 正面の金堂は、桃山時代の紫震殿をうつしたもので、いかにも御所の建物らしい気品にみちている。とくにあの蔀戸の美しさは、王朝の音をしのばせるものがあろう。桃山という時代に回帰してきた王朝趣味の代表的な遺構である。
 ところで、この仁和寺を出たところのあたりに、野々村仁清が住んで窯をたいていたといわれる。仁清は、近世が生んだ最高の陶工で、そのロクロの腕は古今に類がないといわれたほどの人である。それをしたって乾山もまたやってきている。『徒然草』の著者吉田兼好がすんだのは、ここからほど遠くない双ガ丘の麓だった。このあたりを歩いていると、そうした芸術家や文人を思い出す。
 私はいつか冬の寺について聞かれたことがあった。春や秋の観光客ににぎわう季節をさけて、ゆっくりとただ一人で冬の寺を訪ねるとすると、どのような寺がふさわしいだろうかというのである。
冬の寺、たしかにいい。靴下を通じてじかに伝わってくる廊下の感触、それは刺すような冷たさではあるが、しかし、じっとそれを踏みこえて、人っ気ひとつない寺の縁側にすわりこみ、石の庭に対する、その孤独の味。
 いや、外套のえりを立てながら、長くつづいた白壁が日だまりをつくる、その白壁によりそって、こつこつと靴の音を響かせながら歩いてゆく石畳の道。その道をゆく私の影が、私の心をしめあげる。
 私は、そうした冬の寺を思うとき、ふしぎにいつも妙心寺を思い出す。妙心寺という寺が、そのような孤独の魂に通じているというのではない。最初にこの寺を訪れたときの私の印象がそれをさせているのであろう。
 妙心寺は、京都の街の成り立ちからいえば、たしかにその繁華なところを離れたところにある。いかにも庶民的な低い屋並みが町筋をつくる、その只中だ。しかし、この寺は京都では禅寺のなかの最も大きな敷地と規模をもつ大寺院であることはいうまでもない。その点、私の冬の寺の感懐とはまったくうらはらなのである。
 さらに、うらはらといえば、私が好んで訪れる退蔵院の庭もそうであろう。それは、墨絵の世界をぬけ出て、大和絵の世界をうち立てた狩野之信の指導によるというだけに、明るい気持ちのうえにつくられている。中世的な否定ではなくて近世的な肯定のうえにできた庭だ。
 私は退蔵院の庭に面すると、そこが冬の寺の日だまりのような暖かさを思う。いや、ここの境内にはもっとある。あの近世の肯定のうえに立ったものが。すなわち、天球院の山楽、山雪の絵だ。山楽はすでに晩年に達していたが、山雪は脂ののりきった40代。その2人が、豪華けんらんたる色彩に、思いきり腕をふるって書きあげたふすま絵がある。桃山をあらわす最も代表的な作品であろう。
 妙心寺とは、ふしぎな寺だ。そのながいながい石畳の道が、ところどころに塔頭の門をむかえるが、つと立ちよると、そこにはまたすばらしいものが待ちかまえている。義満に弾圧され、応仁の乱に焼かれて、しかもこれだけのものが復興し、いまにその全姿を伝えているというのもすばらしいことの一つだが。
 白砂をしきつめた長方形の平面、その上に点在する15の石、ただ、それだけなのだ。それが天下の名園といわれている龍安寺の庭だ。もちろん、この長方形の平面を画している周囲の壁のおもしろさをいう人もあるであろう。たしかにそれは、歴史の年輪をあらわして、そこにある大きな存在だ。
 しかしそれにしても、主役は、この15の石が象徴する空間であることはまちがいない。だが、それにしても、これは何というふしぎな空間であろう。いや、庭園であろう。
 人々は、この庭園について、いろいろなことを語りついできた。細川勝元がこの庭をつくらせたという記載もある。『雍州府志』という本であるが、それによると、細川勝元が、日ごろ信仰する男山八幡宮を遥拝するために、いっさいの木を植えさせなかったということだ。あるいは銀閣寺の庭をつくった善阿弥が、たくさんに送られてきた石のなかから、特別に気に入った石をえりわけておいて、そして最後にここで自分の思いどおりの庭をつくってみたという。
 勝元の話に至っては、いささか恐れ入るばかりであるが、善阿弥の話もどうも怪しい。石の一つには、明らかに徳二郎と小太良の名前が入っている。この庭をきずくに、直接に参与した人の名前であろう。
 それにしても、この庭はいったい、何を意味しているのであろうか。〝虎の仔渡し〟という名称で呼ばれているところをみると、あるいはとうとうと流れる大河を虎が子供の虎を引き連れながら渡ってゆくさまをうつしたのか。また、人によっては海の景色をここにうつし出そうとしたという。あの虎と思われた石が、島になぞえられるのである。私は、かつてこの虎を桃源境から流れ出る河の流れにたとえたことがあった。
 しかし、ともかくもいえることは、この庭自体が持っている禅機というものであろう。自然のなかに、大宇宙の原理を発見し、そこに人間存在の根本をつきとめるという考え方は、夢窓国師以来、ふしぎに庭をつくり、ながめる態度と一致した。
 庭をつくり、ながめることが仏道修業の心と一致するならば、それはみずから庭の単純化と象徴化がそこから生まれてくるであろう。ことによるとそれは庭をつくることの虚しさに徹し、木や草はもちろん、石までも否定して単なる土の空間、それのみを残して終わるかもしれない。色即是空なのである。
 その空、虚無に至る一歩手前のところでとどまっているのが、この庭である。私は、そのように思って、いつもこの庭に対している。