茶の湯を語るとき、「佗」はいつも重要な位置を占めている。その「佗」とはいったいどういうことなのだろう。千利休の孫にあたる千宗旦の遺書『禅茶録』によると、「ものの足らざる様」と記されている。

 つまり「佗」とは「不完全な美」を求めることなのであろうか。明治時代、『茶の本』を記した岡倉天心は、「不完全なものを愛こうする宗教」とまで述べている。また茶の湯では、「数寄」という言葉を長い間用いてきた。今日でも「数寄者」とか「数寄
屋」とか「数寄をこらす」とかいろいろの言葉が残されている。

 この「数寄」は古くは「数奇」と記され「好」の当字に過ぎないとされているが、「奇」は「偶」に対する言葉で、「佗」と同様に何かの不足することを暗示しているようでもあった。それは、奇数の数を意味し、きっちりと割り切れない姿や、整っていない様であり、「不定形」とか「不整形」「破形」「不均等」といったことを示唆していた。

 これに対してョーロッパ、ことにギリシャの美は、完璧な美、割り切れた均斉の美、そして合理的であることに理念が置かれていたこととは、あまりにも対照的だったのである。

 こうして古くから多くの茶人たちが愛した、いや私たち日本人の心の中に伏流のように脈々と波打っている不完全なものへのあこがれは、長らく東洋の哲理として説かれた「無」の境地に近づくためだったのかも知れない。つまり、人間は自分自身が常に不完全であるため、完全なものに不自由さを見出す。
 これは、特に東洋人に多くあったからに違いない。「無」といっても、この場合有無に滞らぬ無である。その「無」が形をとるとき、「佗」であり「数奇」であり、そしてまた「渋さ」と呼ばれるものであった。それはまた、真の富を内包した「貧の美」でもあったのである。

 華麗な王朝絵巻をくりひろげる葵祭りは、毎年5月15日、上賀茂・下鴨の両神社で催される。春をいろどる祭りだけに、当日は冠や牛車、棧敷の簾などに葵の花を飾ったことからその名がついた。葵は古来から神の依りくる植物とされ、この日葵の花を挿頭にするのは、神と人のふれあいがあったからだ。さらにあおいは〝逢う日〟にかけられ、恋人どうしがこの花をとりかわす日でもあった。古く、祭りといえばこの葵祭りをさすほど、重きがおかれていた。
 葵祭りといえば、もっとも有名なのは『源氏物語』の第九帖「葵」である。むろんこの帖名は賀茂社の葵にかかわってつけたもので、賀茂社の斎院が交替した御設の式日に、正妻の葵の上も、愛人の六条御息所も行き、両者の間に車合戦めいたものがおこる。2日目に源氏は彼の最も愛する紫の上をつれてでかける。その源氏に歌を送った女性がいる。
  はかなしや人のかざせるあふひゆゑ
  神のゆるしの今日ぞ待ちける
「すでに他の人(同車した紫の上)が葵(源氏)をかざして逢っているとは知るよしもなく、私はあなたにお逢いするため、神の霊験があるという今日の祭りを待っていたのに、ほんとうにはかないことでした」
 という歌の意味だが、「葵」の帖は源氏をめぐる女性たちの葛藤が、あおい(逢う日)にかけられて展開されていたのである。
 あおいを〝逢う日〟にかける例は、遠く『万葉集』のころからあり、多くの歌に詠まれてきた。紀貫之にも

  人もみなかつらかざして千早振る
  神のみあれにあふひなりけり
とあり、清少納言の『枕草子』にも「あふひいとをかし、祭のをり神代よりしてさるかざしとなりけん、いみじうめでたし、もののさまもいとをかし」とある。
 葵祭りはこうして、王朝の歴史をはぐくんできた。

 九月にもならぬうちに、もう桜の葉の散り紅葉を踏んだ。とっておきたいように、鮮烈な紅だった。

 春は里から。秋は山から。京盆地の三方につらなる山々の緑は気づかぬうちに色づき初める。松くい虫の発生しなかった昔は、踏むところがないほどたくさんの松茸が生えでたという水尾の里は、また柚の里でもある。芳香を放つ柚の実が黄色の花のように木々を飾る。松茸を焼いて、柚をしぼりかけて、自然塩をすこしつけて食べる。柚湯につかるよろこびもある。

 東山の月はおそい。西山の裾野である嵯峨や嵐山で名月が待たれるのは、月の出を早く美しく見ることができるからだ。東から西へ渡る月を仰いで「夜もすがら」俳人がめぐったという広沢の池や、大覚寺から龍頭鷁首の船が仕立てられる大沢の池は、地上の月のように美しい。嵯峨野一帯には、祗王や小督、横笛その他、数え切れぬ先人たちの、恋やうらみが、いまも尾を曳いて漂っでいるような気がする。

 すでに野の茂みはなく、一望民家の屋根ばかりとなった現在も、双ヶ丘をはじめとする小さな山々が物語のさしえのように影を落している。人は人を恋うて泣く。涙涸れたる沈黙に、人は激しく山と対話する。せつない胸の内を山に聞いてもらう。話しかけ得るやさしい山々を身近にもつのが、京の情感の一つの要素ではないか。

 花や紅葉には人が動いて逢いにゆく。月見は月が動くのを人が坐して仰ぐ。京の名園名庭には月見の宴のための露台や、月光をうけて輝くべき白砂の用意がある。どこまでが人為で、どこまでが自然か、わかちがたく思われるほど、自然の推移に参入した暮らしようだ。自然が人を養い、人が自然を活かす状況を京の特色として大切にしたい。

 紅や黄に燃えたつ秋の山野の荘厳は、終焉前の絶叫に似たすごさで身に迫る。その下にたって紅葉明りに染むひととき、この朱に負けぬ思いで世を染めてゆきたいと思う。なまなかなことで、人のよき力はひきだせまい。よほど自分にきびしく、自分をはげまさなくては……。

 散った紅葉は、ちりちりの枯葉とかわって踏む足もとにくだける。町の並木もすでに裸木だ。木枯の吹く晩秋の京は、美しい見ものがなくなってようやくよみがえる素顔の京だ。黒い屋根瓦や、石畳の道や、紅殻塗の格子戸などの美しさが、あらためて心に近くなる。

 以前、日本映画の大半は時代劇であった。そして京都は時代劇向きのロケ地を無限に供給してくれた。しかし、今では時代劇の本数は激減し、かつて理想的なロケ地だった風景には舗装道路が走り、電柱が並び、ひどい所では山がゴッソリ削りとられて宅地が造成された。それでもなお、京都の映画人たちは、伝統の時代劇に執着を持ちつづける。
 舗装路と電柱のない場所となると、太秦近く嵯峨野近辺の、大覚寺わきの大沢池や、広沢池西岸の細道から入る後宇多天皇陵までの竹藪の道、双ケ丘などごく限られた地域の他には、一部の大社寺の境内以外にしかない。一例をあげれば、仁和寺、妙心寺、大覚寺、二尊院、清涼寺、いずれも洛西(右京区)だ。太秦の地に各社の撮影所が密集したわけはここにある。洛西以外では京都御所(上京区)相国寺(伺)下鴨糺ノ森(左京区)西本願寺台所門(下京区)などが有名。
 しかし、これらの場所でも、むかしはなかった障害が起きて来た。激増した観光客や修学旅行生の波、お役所(消防、文化財保護課)の干渉、これを気にする社寺側の非協力的態度、等々だ。仕方がないからロケ隊は、郊外へ隣県へと遠出することになる。
 例えば、右京区の大原野神社鳥居付近は股旅ものの街道にはもってこいの所。綴喜郡田辺町の農道にかかっている土橋もわびしい裏街道気分満点で、想像以上に「橋」を重視する時代劇マンの人気を集めている。
 斜陽財政だから、遠出といっても行動半径はおのずから限定され、亀岡市の保津川あたりか、南は奈良に近い相楽郡加茂町あたりまでということになる。もっと手近に時代劇ムードを味わいたい方には、下り山陰線が花園駅を過ぎるとやがて東側の車窓に見えて来る東映京都撮影所のオープンセットの見学をお勧めしたい。

 金閣と銀閣とは、京都名苑巡りの二王天であろう。京都の案内書で、この両閣に触れていないものは見当らないほどの、明星であるから、今更らしく、ここに筆を及ぼすことは、好ましいことではないが、ここを外して行くわけにも参らず、何とかして、責を果したい。全く苦渋の筆である。
 浄土寺の由来は古い。
 宇多天皇の皇孫で天台座主になられた明救僧正が浄土寺を開基された。鹿ケ谷の北、北白川の南、東は如意ケ岳に接し、西は神楽ケ岡に隣する広い地域であった。『日本紀略』によると後一條天皇が長元9年(1036)4月に崩御されたとき、神楽ケ岡で火葬し、御遺骨をしばらく浄土寺に安置されたこともあったらしい。昭和32年10月のことであった、浄土寺南田町の山麓から、鎌倉時代の経塚も発見されており、相当の寺観
があったと推察される。室町将軍義政の弟義視は、浄土寺の住持でもあったので、まだそのころまでは、伽藍の一部でもあったものかも知れぬ。
 やがて義政が、この土地に東山殿を築いたので、浄土寺は相国寺の西の方(いまの室町通今出川上ル所)に移建され、廃絶の運命を取った。
 後白河法皇に奉仕した丹後局の邸も、この附近にあったらしい。丹後局は高階栄子という。平業房の妻であったが、業房が流罪で京を去ったあと、後白河上皇の院に参内し、皇女宣陽門院現子内親王を生んだほどの女丈夫である。内大臣土御門通親と結んで、源義経を後援し、源頼朝及びその糸を引いた関白九條兼実等には反対的な立場をとり、頼朝の兵を悩まし、兼実を窮地に落とし入れること再三であった。丹後二品とも言われ、かなり痛快な振舞を敢えてした。
 そうした貴族の邸もこの辺にあった。
 足利8代将軍には理想の人物があった。それは、その祖父の3代義満将軍であった。
 義満は、初祖尊氏、次祖義詮の二代を費してもよく果さなかった南北両朝の合一に成功し、足利幕府の面目を堅め、裏松家の女康子を妻に迎えて東夷の野卑から脱出し、室町花御所を造営して幕政を不動たらしめたのみならず、北山にあった西園寺家の別邸を入手して北山御殿を完成。その一角に金閣を造立し、足利氏の経済力を誇示した。鹿苑院殿義満の風手は、義政の脳裡から消えなかった日光月光であった。

 関東管領満兼を雌伏せしめ、中国鎮西の雄大内義弘を討伐し、盛んに遣明船を派遣した義満は、当時における大富裕者雲集せる堺港を支配するだけの実力所有者でもあった。
 その孫義政は、とてもその糟粕さえも害められなかった。
 3代義満の孫である限り5五代将軍にならねばならないのに、8代であったことは、それだけを考えても、足利氏に弱味があった。何となれば、義満の次は一代をおいて義政に続くべきであるに、その間に義持、義量、義勝、義教の4代将軍が現われたので、謂わば、将軍の系統が3代横道に外れた、ということになる。それだけに、そこに厄介な問題が介在する隙間が出来たことになる。
 3代義満の時代ならば、堺の富豪は、義満の指揮で動いたろうけれども、8代義政の時には、堺の富豪の方が逆に、将軍またはその配下の管領を、左右する有力者になっておった。それ故に義政は義満を模倣しようと思っても、焦慮しても、とても実現し得べきでない弱力者であった。この事は銀閣が金閣の模倣ではないと言わんとする第一の理由たり得る。
 普通、銀閣というと観念的に金閣の亜流であるかに定めてしまうのであるが、実は銀閣の殆どは金閣の真似ではない。
 嘗て私は東山義政の伝記を書かんとして、その行動を調べたことがあったが、その別邸東山殿の建立に際して、度々、義政は西芳寺を訪うて、夢窓国師作庭の秀技を写そうと努めたことを知った。銀閣は西芳寺に追随したものである。その一証として銀閣のある慈照寺の建物や庭景と西芳寺のそれとを対比してみよう。括弧内は西芳寺のものである。
 〇楼閣、観音殿(舎利殿) ○禅室、西指庵(指東庵)○門、大玄関(向上関) ○佛殿、東求堂(西来堂) ○山上の亭、超然亭(縮遠亭) ○池畔の亭第一、弄清亭(渾北亭) ○池畔の亭第二、釣秋亭(湘南亭) 〇池畔の亭第二、漱蘇亭(砺精亭) 〇亭橋、龍背橋(邀月橋) ○舟舎、夜泊船(合同船) ○池、錦鏡池(黄金池)
 両者の酷似は、その名称だけではない。建物の性格も形式も配置も、相似であったと見られる。庭園の構成が、やはり、下部は池泉廻遊式で、上部が、枯山水であることも、同一構成である。西芳寺の中心になったのは池畔にあった舎利殿で、それは二層建であった。銀閣はそれに倣ったから二層閣である。もし銀閣が金閣に模したのならば、三層閣であるべきである。銀閣は義政の手許不如意のために三層閣にすべきを、そこまでは造らないで二層で辛棒したもの、と考えてはならない。
 だから銀閣を論ずるに金閣を標準することは、全く誤見であるとして斥けたい。
 義政の狙うたのは、異国趣味の豊かな、禅味の漾うものであって、その基礎となるものは、宋元の墨絵であったと思う。夢窓国師が追求した雰囲気であった。
 金閣は北山殿の一隅であり、北山殿は西園寺の阿弥陀堂を中心とする林泉である。弥陀の浄土であり、西方極楽である。銀閣はそうではない。観音の浄土であり、補陀落山浄土であり、人間の求めてやまないこの世の浄土である。禅宗のいう此岸浄土である。
 浄土寺の寺名にも、その思想は繋がりを持つ。死後の浄土ではない。現世の浄土である。この点において、私見は、全く、従前の案内記とは立場を異にする。
 義政はどこまでも浄土を現世に求めたかったのである。彼には死後の極楽を追究するほどの、余裕はなかった。
 現世主義に徹した男が義政で、東山文化とは佛菩薩の文化ではない。どこまでも人間本位の文化である。人の住む世界を浄土に浄化せんとすることが、東山文化の真髄であることを、提言しておきたい。
 足利義政は祖父を理想とし、その再来をもって自認したものの、実力において雲泥の差があったので、何事も、その意を満たすことが叶わなかった。殊にその夫人日野富子及びその兄と称する内大臣日野勝光に威圧せられて、時には自ら幕府から逃げ出すようなみじめな日もあった。
 その弟で浄土寺の住職であった義尋を還俗させて次代将軍たらしめんとしたのを、富子に妨げられて、富子の生んだ義尚に職を譲らねばならぬ不面目さを、忍ばねばならなかった。
 政治上、家庭上、財政上の重なる不本意は、とうとう一種の自暴的な振舞に出ぎるを得なかった。文明14年(1482)浄土寺の一角に別邸工作を初め、翌年漸くその外形だけが整うと、急いでここに移住した。
 尓来8年余の歳月を要して、殿舎楼閣の造立、庭園の構成に身を雲したが、完成を見ずして延徳2年(1490)正月7日死歿した。
 遺命によって喜捨して寺となし、夢窓国師を開山とし、義政の法号慈照院殿に因んで、慈照寺と号した。
 天文の兵乱で伽藍及び義政愛翫の名宝珍什は焼失した。銀閣と東求堂と庭園とは、僅かながら東山時代の片影がある。
 殊に庭園は義政の歿後荒廃しておったのを元和元年(1615)宮城丹波守豊盛が改修を加えて、景観を一新したのであるから、現況を義政時代のままと見てはならない。上段は昭和6年に発掘されたもので、なお今後ともに多少の発見は期待される。
 本堂前の銀沙灘と向月台とは珍しい豪勢さであり、中国西湖の風景を想わしめるもので、特に背後の月待山から登る月の美観を賞するには、恰好の構成である。異国調であるが、どうやら江戸期の添作だろうという説も成立する。
 義政生前の持佛堂であった東求堂だけは、東山時代の遺構である。桁行前面5間、後面4間、梁間3間、蒲洒を極めた書院風の住宅建築である。
 堂内に足利義政の法外等身像を安置する。その一角に四畳半の茶室がある。同仁斎と言われ、義政の好むところというので、最も注目されるものである。茶室の四畳半はここに由来するかにも、宣伝せられた時代があった。
 もう一つ銀閣を眺めておこう。
 西芳寺の舎利殿に擬したもので、重層である。下層を心空殿といい、和様の書院造。上層は禅宗様の佛殿で観音像を安置する。潮音閣と名づける。
 ここに銀箔を貼る予定であったと言えば、銀閣の名の起源が諒解できるが、果して義政は銀箔を置くことを考えておったか。寧ろ白木造のままを銀閣と誇称し、月明の咬々たるを想定しておったのではないかと、惟ってみることも許されよう。
 銀閣の庭は、歩いて廻るときに充分の効果が現われる。曲路迂路の幾曲りも、なつかしい親近感を起さすし、道の両側にある庭樹に袖が触れ、裳が引かれるも、うれしい思出である。庭樹の繁る枝のすき間に東求堂の屋根が見える。銀閣の姿が隠見するも嬉しい。幾つかの石橋を渡るとき、崖から落ちる洗月泉の流水に接するとき、衣の裾が冷たくなる。山気に触れるという思いが、存分に味わえる。
 銀閣の庭は、歩くときに、その真情に触れる。足の裏に伝わる感覚。それは東山義政も味おうた触感である。どうかすると、日野富子も亦心を動かしたかも知れない。
 金閣とは全く違う。金閣は眺める庭であり、写真機の喜ぶ周囲である。銀閣は歩く庭であり写真にはならぬ庭である。 一本一石一草一花スケッチになる天巧の花園である。加うるに如意ケ岳の嵐気が吹く。月待山の月を待つだけでも、楽しい。
 最後に見てほしいのは、三門を入ってから右に曲った一筋道の両側にある石垣生籬の美観である。刈込の樹の雑草曼荼羅である。
 生籬でこのように美しいものは、滅多にあるまい。雑木の木の葉が大小広狭さまざまであることが、この美を醸し出したのであろう。雑木とは決して無用の木の意味ではない。決して位の卑しい木の意味ではない。人目に触れず建築用材にも役立たぬ雑木こそ、真に尊ぶべき緑の絹である。
 人世もそうかも知れない。花と咲かず、美材と褒められない雑木のような、舞台裏の人生こそ、真の人世であり、佛果の世界かも知れない。目立たない人が、一番貴い人であるかも知れない。
 銀の味に思いがけなき滋味があった。銀の色に、考えもつかなかった教訓があった。
 月待山から登った月光の下で、慈照寺の庭を歩いてみたい。眺めてみたい。歌にしてみたい。文字にしてみたい。

 京都で覇を唱えんとならば、東の方では近江を、西の方では摂津河内―言い換えれば淀川を、その翼下に抱かえておかなければならないことは、古今の歴史が明示するところである。
 妙喜庵が山崎にあることは、絶大なる意義がある。
 羽柴藤吉郎秀吉と明智十兵衛光秀とが信長の死後、
両者の将来を賭けて合戦をやったのは、山崎天王山の争奪であったと言われる。
 天王山は天下分け目の場所である。
 その山麓の山崎は、単に天王山の麓であるというだけで、重視されるべきであろうか。
 そうした地勢的の条件の外に、山崎に蒐集された資本力の絶大さにあるのであろう。
 離宮八幡宮のところで、それは細説されるであろう。
 いま山崎にある妙喜庵を訪れんとする前に、そこの開山春嶽士芳(東福寺聖一国師七世の法孫)を法の勝友とした山崎宗鑑の事績を知っておいてほしい。というのは、宗鑑が老後ここに隠棲して一種の庶民文化を咲かしたことに、大きな歴史的な意義があるからである。少し
く宗鑑の生涯を物語るから耳を藉していただきたい。
 山崎宗鑑は近江源氏佐々木秀義の五男であった五郎左衛門義清(梶原景時と宇治川の先陣を争うた佐々木高綱の弟)を祖先とする。早くから滋賀県栗太郡志那郷に居住し、その地の地頭を勤めておった。この地は「志那の渡」と言われ西江州の坂本から湖東に渡る最短距離の要津で、経済上よりも軍事上で重要な場所である。
 後土御門天皇の寛正6年(1465)志那郷に生れ、志那弥三郎範重と言った。縁あって足利九代将軍義尚の侍童として、室町幕府に奉仕し、兼ねて祐筆を勤めておった。
 長享元年(1487)7月、近江の守護佐々木四郎六角高頼が将軍の命に従わないので、将軍義尚自ら出陣して、高頼を討伐することになった時、近江源氏は二派に分れ、将軍に従うものと、高頼の命に服従せんとするものとが出来た。範重は当然の帰趨として、義尚と行動を共にし、園城寺の宿営から志那渡を舟航して鉤里の安養寺に旆を進めた義尚に軍忠を致した。
 高頼は巧みに将軍の鋭鋒をかわして姿を隠したので、将軍は安養寺に逗留久しきに及び、終に延徳元年(1489)3月26日鉤陣で昇天の悲運に遇うた。将軍は25歳の若人であった。
 範重は、この悲劇を目のあたりにし、人生の無常を悟り、ために致仕剃髪、尼崎に身を隠し、佛の道を深く分けておった。
 たまたま一代の名僧一体禅師の法徳を耳にし、その法衣を尋ねて洛南薪の酬恩庵(俗称一体寺)に到り、その提斯に頭を下げた。おかげで大悟するところがあった。山崎の妙喜庵に止住した。
 豊興山妙喜庵は文明年間春嶽士芳禅師の開くところで、大慧禅師の故事に因みて、庵号にしたらしい。蓋し宋の孝宗皇帝が、嘗て普安郡王であった時、径山寺に居った大慧禅師に、自ら妙喜庵の三字を書いて寵寄したことがあった。その老師は年老いて後は明月堂に退棲した、という歴史があるので、それに由来して妙喜庵と附けたらしく、いま妙喜庵の中に、明月亭という広間があるのも、その因縁であろうか。
 範重ここに止住隠棲して宗鑑と改名したのは、明応年間である。竹林中に一草庵を結んで〝対月庵〟と号した。明月堂に由来する庵号であろう。
 宗鑑は、妙喜庵において風月を友とし、歌道や書道を俚人に教え、連歌に耽り、詞友を招きて文学の世界に遊ぶと共に、傍ら日々は、朝早くから油を荷うて京師に出で、油を売り歩き、日が落ちてから帰庵するを常とした。
  宵毎に都を出づる油売り ふけてのみ見る 山崎の月
は宗鑑の作であると言われる名歌である。
 いま妙喜庵に、その時の油筒を模して花器としたものを伝える。名物ものの一つである。
 晩年妙喜庵を、法の師春嶽に託して、自らは西国に旅し、讃岐国観音寺町琴平山下の興昌寺に梅谷禅師を尋ねてここに庵を構え、とうとう天文22年(1553)10月2日示寂した。行年89歳であったという。
 嘗て大永3年(1523)酬恩庵で連歌師宗長らと、炉辺で俳譜の連歌を競うた。「碁盤の上に春は来にけり」という発句につけた「鴬の里籠りといふ作り物」の連句は有名である。それらの句は宗鑑の編著『犬筑波集』に収められておる。
 連歌の権輿であり権威であった二條良基が、南北朝時代『新撰菟玖波集』を編んで勅撲集に準ぜられた名著に対して、卑俗な俳譜連歌である、という意味をもって『犬筑波集』と銘じたのであったが、時代に魁けた新風を含むものとして、俳諧史上における一大明星となった。その功績は頗る大きいと言わねばならぬ。
 特にこの土地に住む油売商人等を中心とする民衆の文芸を、育成促進せしめた点で、最も注目するべき業績であろう。山崎宗鑑の民衆芸能界に印した足痕を高く評価する。妙喜庵を訪れる人々は少くとも宗鑑の氏名ぐらいは知っておいてほしい。
 宗鑑はまた書道においても極めて特色のある文字をものした。墨色の凛々として淋潤たること、如何にも戦国の武士らしく、実に力強いものであり、好んでど「三社託宣」を書き、乞われるままに附与したらしい。いまも相当多数の遺物がある。
 なお、嘗ての近江源氏たりし宗鑑が、山崎の地に後半生を留めたことについては、この土地が天王山下の重大なる要害地であることを想いつつ山崎宗鑑を振り返ると、その長い一生の間に、武士の面影はやはり消えることはなかったかと思う。そして、武を争わねばならぬ悲しき武士の宿運宿命を、文芸によって掻き消さんとしたものか、それとも山崎油売商の擁する巨万の富力が、四方群雄のために利用されて、天下の平和を乱す素因となることを恐れて、その火消し役を勤めたものか。深く考えて見る要がある。
 妙喜庵がいま有名であるのは、山崎宗鑑の業績のためではない。茶室「待庵」のためである。千利休が豊臣秀吉の命をうけて天正10年(1582)に建てたと言われる小庵である。切妻造、柿葺き、2畳の茶室は、次の間と勝手の間との各1畳から成り、壁は土壁のまま、柱は杉の丸太、棰も自然木。いかにも急造りの一構である。天王山合戦の時、秀吉はひそかにこの一室に籠って戦況を見ておったという伝説までが生れたほど簡素なものである。
 庵の縁に腰打ちかけて、南方を眺めて見るがよい。淀川は脚下に流れ、男山は眼前に雄姿を見せ、鴨川、桂川、宇治川、木津川の四川はここに合流して淀の大河となる。泉州堺、紀南の熊野路、紀北の高野街道みなこの一点に集約される。
 洛南の悠々たる田圃は豊かに稔りを見せる。
 一つの庵室か、天下の望楼か。妙喜庵は果して城郭か。ここに漂うものは武か文か。

 如来の中で最も民衆的なのは阿弥陀如来と薬師如来であろう。菩薩の中で最も普遍的な信仰を持つのは地蔵菩薩と観世音菩薩とであろう。寺院の中で一番その名を知られておるのは、秋の月の石山寺と舞台造の清水寺であろう。両寺ともに観音の霊場である。偶然のことかも知れないし、決して偶然ではない。
 大和法隆寺には有名な観音が三躰もある。夢殿観音、百済観音、夢違観音である。その事は観音信仰は佛教の伝来当初に、早くも将来された信仰であった一証である。
 観世音は菩薩である。それだけ衆生には親近感を抱かしめる。その上、必要あらば、上は梵王身、帝釈身から下は摩睺羅伽、人非人等に至るまで、姿を替えて、八万四千衆生を悉皆救済して下さる。それを簡単に三十三(必ずしも三十二の次の三十三でない。絶対大の数値である)の応身佛となって観音を念ずるものの前に示現されるという。そして幾億劫かの永い時間をかけて一切衆生を救済した暁には、如来位に昇上される。
 その点で、易解の法力護持佛であった。天平時代は観意信仰時代であり、尓後、年と共に東西に伸び、上下に及び、不断の法雨を降らせた。
 前述した通り平安末期に多数思想が盛大になったとき、観音礼拝の功徳についても、一尊の観音でなく、多数の観世音に合掌すべきであると考えられることとなり、第76代近衛天皇の康治年間には、三室戸におった覚忠僧都によって、観音霊場三十三所巡礼の挙が組織されておった。
 観音霊場巡礼の儀は、第65代花山天皇が御退位後、花山法皇として初められたものであると言うが、それは少しく古きに失し、覚忠かまたはその両三代以前の頃に、起源すると推定することが合理的である。
 覚忠の時は宇治三室戸寺を第一番としておるので、いまの三十三所の順番とは大いに異なる。熊野那智を一番とし、美濃谷汲山を三十三番とする順拝路は、所謂「西国三十三所観音霊場」の順拝路で、その名の暗示する通り、信越関東地方の人から名づけられた名称であり、順路である。
 紀州熊野路に始って紀ノ川下流にある紀三井寺から、粉河寺を通り高野山に登って諸堂を札拝、四番は和泉の槙尾山、それから河内の葛井寺、大和の壺坂寺、岡寺、長谷寺を経て、九番南都の南円堂。更に十番宇治の三室戸寺、十一番上醍醐、十二番近江の岩間寺、石山寺、三井寺、十五番京都の今熊野、十六番音羽山清水寺。洛中、洛西を打って亀岡に廻り、摂津から播磨の書写山を最西端とし、丹後の成相山、松尾寺を通って再び湖北に出て、竹生鳴、長命寺、観音寺を拝し、美濃の谷汲山に出た進路は、全く東国人のためのものである。
 ここで注意すべきは清水寺が第十六番であることで、それは三十三番霊場の中央に据えられておることになる。それには何か特別の意義がありそうである。
 清水寺へ詣でるならば、その道筋に注文がある。
 祗園円山の繁華街を通り、高台寺前の静寂をすぎ、二年坂を越え産寧坂を登って清水坂に出てほしい。これが京都人の「清水さん」へ参る常道である。
 両側に軒を並べる民家の間に点在する小道具屋、骨董屋、陶器屋、竹細工屋、それぞれの風流風格を持つ店舗は、眺めるだけでも、楽しい。古寺巡礼の滋味である。
 産寧坂は三年坂とも書き、ここで転ぶと三年目に死ぬ、という恐しい伝説のある登り階段。登り切ったところに、経書堂がある。往昔の参詣者は必ずここで納経一巻(またはそれに代るもの)を自ら書写するか、代りに書写してもらって、それを本尊の御宝前に献納した風習があったのであろう。
 清水寺の縁起は古い。
 奈良時代末期のことである。大和子島寺に観音菩薩を奉安して信仰しながら、深山幽谷を行脚修行する延鎮という上人があった。各地を歩いて勝地を探し求め、そこに観世音を祀ることを祈念しておった。宝亀9年(778)霊夢を見たので、それに従って木津川を遡り、菩薩の化身である老翁に巡り会い、その草庵に衣を掛け、なおも求道にはげんだ。
 延暦2年(783)後に征夷大将軍となった坂上田村麿が鹿を追うて木津川の奥に到り、ふと誦経の声がするので、怪しみながら草庵を訪れた。修行僧の神仙に似た容貌に心を動かした田村麿は、殺生戒を犯した罪業の深きを悔い、洛東八坂郷に仙境あるを告げた。延鎮それを聞いて東山に来た。翠嶺の間に瀑泉飛奔する霊地に到った。一早庵に籠居せる白衣の居士がおった。行叡と名乗った。観音を念じてここに隠棲すること多年であると言うかと見る間に、姿を消した。
 延鎮は田村麿の言った普陀落の浄土はここであると知って、観音寺を建てた。田村麿その挙を耳にして同心合力、金色十一面四十手観音像を造立した。延鎮を住持たらしめた。延暦17年(798)のことで、延暦24年(805)には朝廷から寺地も与えられ、大同2年(807)には田村麿夫人が佛堂を寄進した。寺観全く整うた。北観音寺と言ったという。
 惟うに観世音菩薩は印度恒河の流れる音を常に聞いて成道を励んだ佛である。飛泉清流とは深厚な紐が結ばれておるのであって、清水の聖地はその条件に叶うた所であった。
 昭和10年頃かと思う。河内の金剛寺の宝庫の反古の中から7、8通の断簡文書を見出した。それを継ぎ合して見ると延鎮が飛泉清流を渡って寺地となるところを検分しておるところから、清水寺の舞台造の骨組まで描いた絵巻物の粉本で、どうやら清水寺縁起絵巻の下絵か草按らしい。用いるべき絵具の色を墨書で指示してあるもので、山容から樹木の枝振りまで、粉河寺縁起と彿彿たるものであった。
 住職に注意して大切に保存してもらうと同時に、文部省に申告して国宝だったか、重美だったかに、指定してもらったことがあった。なつかしい昔の思出草である。
 昔―と言っても40年前のことであるが―金剛寺など訪れる毎に同伴の学生達に「今日もまた国宝を掘出して見せるぞ」と言って、後村上天皇宸翰2、3点を見つけ出したり、薄恵奥書という珍しい資料を4、5五点探し出したりして、学生を唖然たらしめたものであった。かくして古社寺の古反古が、如何に歴史の宝庫であるかを教えたことであった。昔は、だから、なつかしい。
 清水寺は法相宗に属し、奈良興福寺の系統であったから、平安時代の南都北嶺の争闘には常に禍され、しばしば山門衆徒のために焼き払われた。
 大和の長谷寺がそうである。近江の石山寺がそうである。鎌倉の長谷寺がそうである。花背の峰定寺がそうである。どうして観世音を本尊とした寺の本堂が懸崖造なのであろうか。惟うに観世音の浄土補陀落山は東海の彼方にあるというので、海の向うにある観音浄土を望見せしむる用意と、もう一つ渓河の音を、かそかに聞き得る用意とで、かように構成して、潮音を偲ばせたものかも知れない。
 音響というものは左右に拡がるよりも上方に流れ昇る性格を持つ。渓河のせせらぎは、案外に山の上まで届く。その効果を狙ったものかも知れない。
 本堂の美しさは、東の山際にある、奥院から眺めるに限る。
 九間七面、屋根は四注。左右に裳階を附けて、前方に両翼を出し、桧皮葺である、と鹿爪らしい構造の記載はやめにして、ゆっくりと観賞してみよう。
 ゆるく波状を見せる大きな屋根は、典雅なる傾斜を見せ、その左右に侍る翼廊は、反蹠的に軽く反って張り出し、中間に舞台を抱なえる。翼廊と舞台との下が、長材を縦横に組んだ雄然たる懸嘔である。全体として渾然たる融和を持つ点に、技巧の妙味があろう。
 舞台造の素晴しさに、その他のものは見落されるが、清水坂から登った正面石段の上に仁王門(室町)があり、その背後に西門(江戸)鐘楼(桃山)三重塔以下の諸堂があるけれども、気づかずに過ごされてしまう。
 珍しいのは、仁王門の下にある馬駐所(室町)で、昔武士が騎馬でやって来て、その乗馬をここに駐留しておいた屋舎である。その中の一間に馬を繋ぐ紐を結ぶ鐸が横向きにつけてあるのは、清水七不思議の一つであると、案内婆さんに説明されたことがあった。そのときもう一つを教えてくれた。仁王門の長押の一端に耳を当て、他の一端を爪先きで掻くと、その音が極めて大きく聞えるので、この長押を「こそぼりの木」と言うのであるとか。果してその一端を爪先きで掻く人が多いと見えて、大きな窪みになってあった。それがどの長押であったか、忘れてしまった、ということにして、いまは意地悪く教えないこととする。
 舞台から見下ろすと左手石段下に音羽滝がある。三筋の自糸のような滝であるが、清水寺にはなくて叶わぬ風物であるし、本堂の背後一段上にある地主神社は、地主桜の名木があった古社であり、謡曲「熊野」に出て来る名所でもあるから、一揖を惜しまないことにしよう。もう一つ音羽の滝から山径を通って清閑寺に出る山道も、必ず味わってほしい。〝道〟というものに、かかる法味があり、滋味があるとは、清閑寺道を歩くまでは気がつかなかったのではないか。

 佛教という言葉はやさしいが、その内容はなかなかにむつかしい。その上に〝佛教〟という言葉の中に含まれる内容も、極めて複合的であるのみならず、混雑したものがある。佛教ということは、その文字通り佛如来の教えということであるから、言葉を換えると、釈迦如来の説いた教訓であることに相違ないが、その佛説に関しての後世の佛徒並びに学者の解釈も、また佛教の中に含まれておる。その上に更に、その教理を人間生活に浸潤せしめんとする設備たる寺院も、佛教の一部であろうし、その本尊以下の佛像もまた佛教の一端かも知れない。寺院を中心とする信者の信仰もまた、たしかに佛教である。実に汎広宏博なる内容を有するものである。
 だから、次にしばらく用いる佛教という言葉は、佛説に対する後世佛徒の解釈をさすのであると、諒承してほしい。
 白鳳天平時代の佛教は貴族佛教であり、限られたる地位資格の人々にのみ有効であるから、それは一乗佛教と言われる。それに反して一般民衆を含めた総ての人にも有効なる教えであるとするのが、大乗佛教である。法相宗三論宗倶舎宗とか律宗と言うのは前者であり、東大寺の華厳宗になって、やっと大乗的になった。
 佛教は単一唯一たるべきであるに拘らず、それが大乗とか小乗とか言って異論反溌しておることは誤りであるからとて、伝教や弘法は大小二乗の存在を認めないで、一乗佛教を樹立した。それで佛教は単一合一のものになったかにみえた。たしかに一乗佛教で大小二乗は帰一したらしい。
 しかるに、その天台宗にしても真言宗にしても、すべての天地神佛山川万象を解明するに、それらを金剛界胎蔵界の両界の有象として説かんとしたので、尓来、平安朝を通じての思想思索は、金剛胎蔵両界の併立か対立かで論議され、論究されるに到った。少くとも両界の双立が本質であるかに考えさされた。それを疑おうとはしなかった。すべてのものは両界双立の中で片づけられた。
 それ故に、その波の及ぶところは、思想界は勿論、政界にも、学界にも、社会組織の上にも達し、且つその実現を見た。平安時代末期になると、すべてに両界の存在が顕著に目立った。例えば、

 天皇と上皇。皇室と摂関家。源氏と平家。政治と宗教。南都と北嶺。叡山と高野山。延暦寺と園城寺。金剛峯寺と根来寺。漢詩と和歌。和魂と漢材。真名と仮名。
 それらが進むと京鎌倉の対立となるが、摂関家でも分立して、近衛家と九條家との二派が出来た。
 公家と武家。朝廷と幕府。大覚寺統と持明院統。
 もっと小さくなって来て、伊勢神宮では内宮と外宮。春日神社では本宮と若宮。京都賀茂社も、上賀茂社と下鴨社。もう一つ言うと東福寺と南禅寺。
 東福寺と南禅寺とを対立させたのは、初めてであろうが、それは単に「東」とか「南」という寺号の上から考えついたものではない。その開山に深い関係があるからである。
 こうした対立の世相。それを考えて東福寺に参入してほしい。
 京童は、次のような戯れ言を並べておる。名言であろう。即ち建仁寺を〝学問づら〟大徳寺を〝茶づら〟と言い、わが東福寺を〝伽藍づら〟と呼んでおる。全くその通りで、もし奈良の方から京都へやって来るとすれば―国鉄で来ても、近鉄電車で来ても、また奈良街道を自動車で来ても、東山の裾に二棟の屋根を竝べておる大伽藍に眼を奪われるであろう。
 本寺の開山大檀那九條道家は本寺の創立に当って、その寺号を南都東大寺と興福寺とにあやかりたいという篤志から、両寺の一字ずつを衆字して東福寺と附けたと伝えておるが、実はそうではあるまい。この〝東〟の字は鎌倉を含んだ文字であろう。恰も後水尾天皇の中宮東福門院の〝東〟は江戸を意味しておるのであると同じ軌道のものであるまいか。
 それには、訳がある。
 藤原摂関家では有名な御堂関白道長の時に政権を一手に握って、同じ一族の藤氏の中でも断然、追従を許さぬ大勢力をこの一族で占めた。次の頼通以来、師実、師通、中心実と天下一の位置を持続した。中心実は富家殿関白と言われるほど天下一の富裕者であった。その子忠通は父に劣らぬ有力者で、京都の九條通鴨河東の広い土地に、邸を占めて、法性寺関白と言われた人であって、この頃が藤原摂関家のピークであった。
 その子が3人あった。六條殿関白基実。松殿関白基房。月輪関白兼実である。長子基実は24歳で早世したので、その嗣基通があとを承けて普賢寺殿関白と言われ、近衛家の始祖となる。次子は別に言い立てるほどの事もなかったが、三子兼実は類の稀な材人であり、手腕家であった。兄基実の死後、藤原氏の中心たらんと志し、何かにつけて活躍した人である。九條家の始祖となる。
 近衛基実が平家の姻婚関係にあったのに対して、九條兼実は鎌倉の源頼朝と結び、頼朝のためには随分と庇護的な態度をとって、幕府勢力の拡充には努めた人であった。祖父忠実の邸地に自分の居館を構え、後法性寺殿とも言われた。そこが月輪山の麓であったので、月輪関白殿とも尊称された大政治家であった。
 源頼朝の妻平政子とも良かった。
 鎌倉将軍家は三代実朝が外されて、後嗣がなかった。平政子は京都から親王の御一人を迎えて将軍に拝せんとしたが、後鳥羽上皇の勅許を得られなかったので、とうとう兼実の孫前関白九條道家の四男頼経を迎えて、鎌倉の主とした。僅かに3歳。摂家将軍と言われた。それは承久元年(1219)のことであったが、その3年に有名な承久役が起った。
 迎えられて鎌倉将軍となった頼経は、言うまでもなく鎌倉幕府の飾冠にすぎなく、政治はもとより、日常の生活においても、執権北條氏に掣肘せられ、何一つ意のままにならぬものだから、快々として楽しまず、寛元2年(1244)職をその子の頼嗣に譲った。新将軍頼嗣は時に5歳。
 頼経は、翌3年7月には出家して不満の色を見せたが、それは幕府に僅かばかりの痛痒を与えたかも知れないだけで、何の効果もなく、殆ど鎌倉に幽閉されておるような毎日であった。
 頼嗣もまた同様で、在職9年目には、とうとうその職を逐われる悲命に遇うた。
 実朝の死後頼経が迎えられたときには、鎌倉幕府と九條家の間は膠漆の親密さを見せただけに、頼嗣の放逐となると、却って九條家と北條氏との間は、反目の甚だしきものがあった。反目の隙間を狙う野心家には絶好の機会であった。
 如上の纏綿錯綜した歴史を知っておかないと、東福寺の根元は判らない。
 嘉禎2年(1236)後法性寺殿九條道家は、その住邸の一部を割いて、佛閣を創立した。東福寺と寺号した。
 本尊釈迦像は御法量五丈と称して、二丈五尺の巨大な座像であった。但人は「新大佛」と階仰したと言われる。何分、当時の摂関家には勿論、わが国力に照らしても、不相応な大造営であったので営々努力、数年の日子を費した。漸く寛元元年(1243)大陸において修行を終えた入宋禅侶円が弁円を迎えて開山とした。弁円は宋国において、名僧無準師範に提唱して法を授かり、仁治2年(1241)帰国。九州において頻りに法を鼓吹した。博多の禅風は京洛に聞えた。そこで道家は辞を低くして入洛を乞い、禅法を聴かんことを求めた。
 東福に入寺した日には、道家の外に岡屋関白近衛兼経(道家の女婿)、西園寺実氏(公経の子、道家の室は公経の女)、衣笠内大臣家良(近衛基通の弟、忠良の男)、道家の室綸子(西園寺公経の女)以下、文武百官相踵いで円尓を拝し、弟子の礼を執った。師の声望と道価とは、一時に、洛中洛外に雷轟したに相違ない。
 造営は道家の子一條家経に引継がれて終に建長7年(1255)6月2日に落慶供養の儀あり、円尓の払子によって開堂を荘厳した。
 造営中、日蓮上人も一材を寄せて恭賀したという華話が残っておる。
 すべての物が竝立する時代であったことはさきに言った。竝立はまた竝立を呼ぶ。終に林立になる。
 摂関家近衛家と九條家の両立が、更に進みて、近衛家から鷹司家が分れた。九條家から一條。二條の両家が分立した。ここに五摂家が生れた。この裏面には鎌倉幕府の政策が動いて、公家側をなるべく統一した勢力にせしめないで、分裂させておこうとする方針が立てられた。それで五流にした。鎌倉幕府は、承久合戦には真底から懲りて、なるべく京都側のすべてのものをして鷸蚌の争をせしめようと計ったものであった。
 九條道家の長子教実が家督をつぎ、次子良実は二條家を起し、三子実経が一條家の祖となった。何れも摂家将軍頼経の同腹兄で、西園寺公経の女綸子を母としたのである。
 同腹兄弟の間柄であるに拘らず、道家はどうしたわけがあったのか計り知れないが、三子実経に心を寄せ、次子良実を疎ずる傾向があった。
 道家は後深草天皇の建長2年(1250)11月に家領の処分帳を作って、東福寺及びその寺領並びに九條家の伝領地を悉く処分し、それぞれの因縁者に分与した。
 それによると東福寺関係のものは殆どを円尓上人に附与し、円尓上人以後の住職は、その時の家の長者が、器量のものを撲ぶべきであると言っておる。家領の方は、その大部分が一條実経に伝わり、二條良実には一指をも触れさせていない。
 そのことを知った良実は、とうとう幕府に密告して、道家がひそかに異策を講じておるらしい臭がすると通告した。果して九條堂の僧了行の密計なるものが暴露された。それが道家の示唆によるものであるかの噂が立った。その結果は建長4年(1252)2月21日道家は自らの開基した東福寺山内の光明峰寺において憤死するの悲劇となった。
 その後のある日、二條良実は先非を悔いて父の墳坐に謝罪せんとした。林風忽ち起って本の葉を散らし、それが良実の頬を打った。良実慟哭して「亡父なおわが面を打つか」と言い、葉を取り除けたが、その痕が痣となって消えなかった―という話を『増鏡』は記しておる。
 東福寺が一條実経によって落慶された由来は、以上でとけたであろう。
 東福寺の建立は東方鎌倉のためには、幸になったかも知れないが、九條家には禍根となったものらしくも思われる。道家は、その辺の仔細をよく洞察し、九條家の財産をして東福寺という異形のものたらしめ、それによりて伝統した所領以下を把握して置こうとしたものかも知れない。佛天の加被というものが、このような形式で示現されたとすれば、佛とは是に辱い存在ではないか。たしかに歴史の裏面であり、且つ真相であろう。
 伽藍は南を正面とし泮池・三門・本堂・方丈を中軸とする。その左右に東司、禅堂、浴室、経蔵等が附随する。
 三門はわが国最古の三門と言われるが、室町時代であろう。五間三戸、入母屋造、本瓦葺の楼閣で、両脇に山廊をつける。その手法の中に和様、唐様、天竺様を合含するのであるから、斯道者には好参考になろう。上層内部は兆殿司の筆と伝えられる極彩色であって、佛壇には釈迦像及十六羅漢像を祀ることは、一般の型の通りである。
 明治14年に失火があって本堂方丈を烏有に帰したので、それは幸に再建はされておるとは言え、境内の古建物として見るべきものは二、三しかない。その一は南北朝時代の東司であって、最古の厠であるという。一般受けがしておる。それよりも同時代の愛染堂の方に、心ある人の心は惹かれる。もと万寿寺のものであった。
 その前にある月下門こそ、本寺第一等の雅趣ある四脚門である。文永年間に宮中にあった月華門を下賜されたものである。この門前に立って、秋天の満月か残月かを眺めて見たいと心願すること、30年。まだ果せない佛罰者を哄って下さい。
 通天橋から導かれて歩廊を登ると常楽庵に達する。門内は白砂の庭で池の姿も悪くないが、江戸時代の作庭であるだけに、少し混雑しすぎるほど木石がある。正面屋上の伝衣閣も異様ながら、ここが開山弁円上人の店所である。この一画は、感心するほどでもないが、相当に賑やかである。現今の人々には愛されるものか、常に三五の拝観者がある。この東側に一條家の墓所がある。鎌倉時代以降の宝筐印塔が群立する。
 京都の人には東福寺と言っても知らぬ人が多いが、〝通天〟とし言えば、直ぐに首肯される紅葉の名所である。
 境内を流れる深い渓谷「洗玉潤」に架かる3つの橋廊。その一つの偃月橋は慶長8年、第二の通天橋は、桃山様式の架橋。第三の臥雲橋といわれるところは弘化4年の改造にかかる。
 脚下の紅葉を俯敵するに良く、川上の楓葉と対するに良く、周囲の黄葉と物語るに良く、楓錦碧渓の趣は、たしかに京洛第一の風致である。通天の紅葉を見なければ、語るに足りないと言われた。
 今は楓葉を観て、眺めて、酒を温め、詩を吟ずるような風流佳人は根絶したので、通天のなつかしい昔の姿は、名所図絵で偲ぶより外はない。
 東福寺の名物は方丈の庭である。入口から方丈への渡廊下には、奇石を並べて北斗七星に擬した石庭がある。方丈の西面と北面とは、青苔と白砂とを巧みに元禄模様式に配合した新機軸の作庭がある。重森三玲氏の考案である。碧咬二色の色の鮮かさは、さすがにと思う。同時にその手入れの困難さにも同情をする。
 禅寺の作務は、境内の清浄潔白さにある。凛とした宗風が動くことにある。伽藍の高壮にある。
 境内には塔頭が多い。
 偃月橋を北に渡ったところの龍吟庵は、南禅寺の開山になった大明国師普門の庿所のあるところで、その方丈はわが国最古の方丈であるともいう。正面に国師の木彫座像を祀る。先年、その胎内から臓物が見出されたので学界の注目を浴びた。その一点は無縫塔の中に収めてあった国師の遺骨を容れた鋼製骨蔵品でそれに、
 正応四年辛卯十二月十二日于時東福禅寺師霊骨龍吟補□
と針書をした銘があった。やっと読み取られるほどの細さであったことは、何やらん禅宗の皮肉に触れたようで、畏い極みである。
 芬陀院の庭園は一條禅閤兼良の作とも言い、画聖雪舟の造築とも伝えられる。枯山水庭で、120坪ばかりの苔地に、鶴島亀島があったらしい。亀島は俤を存するが、鶴島の方は原形を偲び得ないまでに崩れておる。
 近来、住持の温かき心から、手入れがよく行届いておるので、必ず見るべき苔庭の一つであろう。
 同聚院の丈六不動明王像は、もと法性寺の五大堂本尊であったと思われる雄像で、俗に十万不動と言って、火難除滅福徳円満子孫繁昌の霊験を願う信者で、常に賑やかである。
 東福寺の伽藍づらに、少し化粧水でもつけたいように思う。資生堂にでも頼んでみようか。カネボウにしようか。

 船岡山は山の形が船に似ているから船岡と呼んだと言われるが、実は、一向、似てもいない。昔ここに梶井門跡の大池があって、その池に出ておった岬であった。それが船に見たてられて、この山を船岡と呼んだらしい。山の形は極めて優婉で、清少納言の『枕草紙』にも「岡は船岡」と言われ、古来清浄無比の地として、斎庭にあてられておる。
 清和天皇貞観元年(859)陰陽寮に命じて、五穀の害虫を攘う祭を、ここで行われた。今宮神社の疫神も、はじめは、船岡山に祀られた。
 第64代円融天皇が譲位の後、この山麓で子の日の遊びをされたことがある。船岡の北面小松が諸在に群生する中で、小松引きをされたのであって、古代中国においては正月初子の日に、岡に登って四方を望むと、すべての憂いを除くという故事のあった事と、年の初めに、松の実を喰べると、一年の邪気が払えるという風習があった事から、この年中行事が初まった。
 ついでながら梶井宮について一言する。
 梶井宮とは天台宗寺門派三門跡の一つで、はじめ叡山東塔西谷にあったが、73代堀河天皇の皇子最雲法親王が入寺された時、東坂本の梶井の里に御里坊を作ったので、梶井の号が起った。又梨本坊とも言った。86代後堀河天皇貞永元年(1232)火災にかかり、建長2年(1250)船岡の東麓に移り壮麗な御所が造営された。『応仁記』に
 舟岡山ノ滝頭ノ東尾ヨリ行松ノ雲ニ螢エテ、御池ニハ常ニ群居ル鴛喬ノ近江ノ湖水ニ異ラズ、所モ名ニ負フ花盛り、雲ノ林ノ宮所、雲ノ春ニモヲトラメヤ
とあるので往時の様が偲ばれよう。
 この池は旧紫野院の苑池を利用したものであろう。

 梶井宮はこの地にあること約200年余、応仁の乱にかかって焼失、のちに大原に移った。それがいま大原の三千院門跡である。
 その後後一條天皇万寿2年(1025)4月二條天皇皇后城子を雲林院で火葬したことが見えるし、ついで治暦4年(1068)後冷泉天皇を船岡で火葬したのを初めとして、天皇皇后を船岡で野辺の煙とすることが行われたので、この辺が葬送の場となって、『徒然草』にも鳥辺野や船岡に毎日紫煙が上るが、更に野辺送りの数は至るところで見られる、と書いておって船岡一帯の性質が完全に変わった。
 戦国諸侯の中で入洛を目的とし、京都から天下に号令しようとした一人に織田信長があった。
 信長の父信秀の時に、織田氏と宮中との関係が結ばれた。
 内蔵頭山科言継は北白川の向う山中村の磯貝某から、信秀勤王の志厚きを聞いて、磯貝をして江州野洲の晒布販売人立入宗継をして信秀に説かしめ、禁裡修理料を献金せしめたこともあって、その子信長は将軍足利義昭を奉じて入洛するや、御所築地の修理を果たしたほどであった。
 信長の入洛を裏面から妨げたのは安芸の毛利氏であったので、天正10年6月それを討つべく岐阜から本能寺まで出陣してきた。
 2日の暁天明智光秀に暗殺された。前夜遅くまで信長と碁を囲んでおった阿弥陀寺の清玉上人は、驚いて火中からそれと覚しき信長の遺骸を探し出して、阿弥陀寺に葬った。その時の阿弥陀寺は現西陣織物館の北にあったが、後、秀吉の区画整理で寺町通今出川上ル四丁目賀茂川沿いに移された。今そこに信長嫡男信忠森蘭丸等の墓が共にある。
 6月10日の山崎合戦で、光秀を討った秀吉は、10月15日主君信長の本葬を大徳寺において、未曽有の盛儀をもって営んだ。信長の後継者をもって任ずる柴田勝家の推す次男信雄、滝川一益推す三男信孝を斥けて、長男信忠の子三歳の三法師丸を擁して、焼香争いをした事は有名である。
 その時、何故にこの葬儀を阿弥陀寺でやらずに、大徳寺でやったか。千古の疑間であるが、後に、秀吉が大徳寺に織田信長のために総見院を建てておることから考えると、千利休とその師古渓和尚の画策であったかとも思われる。
 然るにその後大徳寺内で南北両派の相争があったのと、秀吉が利休古渓の内心を見破ったことのためか、秀吉は船岡山に信長の菩提寺「天正寺」を建てることにした。正親町天皇から寺号をいただいた宸翰が、現在徳禅寺に尚蔵されておるにもかかわらず、それは実現されなかった。恐らく「天正」という年号を用いたことには、秀吉の意気込みも察しられるが、それだけ叡山の反撃が強かったので中絶したかと思う。
 明治2年明治天皇の勅命によって、信長に太政大臣従一位を追贈され、秋田県天童の藩主織田信敏に命じて、その祀っておった織田社を建勲神社と仰せられた。改めて13年船岡山に移築されることになった。ようやくにして信長の神霊は船岡山に祀られた。
 船岡山は要害の場所であって、もし丹波より兵を京都に入れるとすれば―周山から軍を進むれば、杉坂から鷹ケ峰に出ても、中川小野から鞍馬寺に出ても、清滝川に沿うて神護寺に出ても―何れも皆船岡山の要塞に守られる。
 応仁2年(1468)にも、永正8年(1511)にも船岡山の攻防戦があって、相当の死傷者を出したが、その何れかの時に掘られた塹濠と思われるものが、神社の背後に二道ある。
 戦史上の珍しい遺蹟として、諸彦の研究を仰ぎたい。
 建勲神社を記したついでに信長のことを一、二言いたい。
一、彼は決して征夷大将軍となろうとしないで、皇室奉戴の一念に燃えておったこと。
二、安土に城を構えて城下町を作り、今後の平和は武士の手だけでは保てない。四民の協力と資本力によるべきである、としたこと。
三、故に信長は平和論者であったこと。
四、そのために強力な資本と、鋭利な武器を必要とすることに気がついた。
五、信長は金貨本位制を採用した。
六、鉄砲の入手に一生懸命であったこと。
七、外国思想によって新しい天地を開こうとしたこと。
八、安土にミッションを作り、天主教徒を優遇した。
 以上がその大要である。

 親鸞上人は、僧侶に対しても特殊の服装をする必要なく、在家の姿のままで説教をしてもよい、といった徹底した宗風を立て、寺院の建立さえ敢えてしなかったのである。普通の民家に少し手を加えて集会所とし、これを「道場」と呼んだ。信者が自ら進んでここに集まり、語り合うことを求めた。「講」とも言われた。
 だから本願寺というものの初めは、寺ではない。親鸞の墓所をもって寺に代えたので、従って住職というのは墓守りにすぎない。留守職とも言っており、親鸞の末娘がこれを掌り、その家系が代々あとをうけた。
 第八世の蓮如上人も、しきりに信者に対して消息を送って教旨をやさしく教えた。それを信者からは「御文章」と言われておる。親鸞の説くところを判りやすく説き聞かせ、寄合いの席で、これを講衆の長老に代読せしめたらしい。だから御文章は、一字一字を離してかき、しかも片仮名を用い、眼に一丁字なきものでさえも、読みうるように工夫してある。
 蓮如の頃になって、漸くにして本願寺という「寺」が完成したらしく、ここでその住持が教団の教主であるという組織は、基礎づけられたようである。
 蓮如は御文章の外に六字名号を何百枚とかいて、これを講に与え、それを壁面にかけ、本尊として拝ましめたのみならず、講をして、更にこれを写さしめて、次の人に送るというやり方で、信者を雪だるま式に増加したのであった。
 蓮如はこうした百姓とか地侍とかによる自治的な信者を持ったので、その実力は極めて強いものがあった。経済力において。武力において。
 石山落城に際して顕如の平和主義に対して、教如は主戦論者であったことは、さきにのべた。その後、信長の死後になって、教如が本願寺をついだ。しかし教如の母が、弟の准如に本願寺をつがしたく秀吉に訴えて成功し、准如が第十二世に坐った。文禄2年(1593)のことであった。
 慶長5年(1600)関ケ原合戦が起った。教如は家康の許にかけつけて陣中見舞をしたが、准如は西軍の勝利を信じ、佐和山城の石田三成に見舞の使者を出しておる。このことは、教如の方に先見の明があったわけになる。それ故に合戦後になって、徳川家康は江戸の妙安寺にあった親鸞自作の阿弥陀像を持ち来たらしめ、教如に与えた。ついで慶長8年に家康は教如に京都の鳥丸通七條上ルところに寺地を与え、妙安寺の本尊を、この寺の本尊にあてた。
 教如が死んで、その子長如のとき、江戸幕府は正式にこの寺を公認したのである。さきの本願寺の外に、東本願寺は、かくして成った。
 石山本願寺の強力さには、さすがの信長も参ったのである。家康は本願寺操縦について苦心した。
 かつて、承久合戦後、鎌倉幕府は摂関家を五家に分立せしめたのみならず、皇統までも大覚寺持明院の両統に分岐せしめ、両者対立の時代を現出して、ある程度の成功を見せた。
 その故智に倣って、ここに巧みに、東西両本願寺の併立に成功した。そして優遇した。そのために両本願寺は共に骨を抜かれたように軟化した。両本願寺の勢力を競う相手は、双方ともに双方の本願寺であった。
本願寺の狙うところは宮廷でも幕府でもなく、自己の教線拡張において、相手本願寺に負けじとするのみであった。
 江戸時代初期は教如の関係から、幕府の厚き後援を東本願寺はうけた。元和5年(1619)二代将軍秀忠は寺領安堵の朱印状を与え、三代家光は寛永18年(1641)に従来の寺地の東に東西149間南北297間の土地を寄附した。
 その頃は東本願寺の方が陽光をあび、西は影をうすくした。この新加の地内に方百間の園池を構え、法主の隠居所とした。渉成園である。
 たまたま三代将軍家光の入洛があったので、西本願寺が非常に張り切って、書院を新設したことはさきに言った。
 さきにも言ったところであるが、江戸幕府と雖も、武家幕府である以上、武家幕府の権輿であった鎌倉幕府の精神は遵奉しなければならず、その鎌倉幕府の精神とは、貞永式目であるから、江戸幕府は、貞永式目の含む法の主意を没却することは出来ない。殊に江戸幕府は幕府の立法した「御定書百ケ條」があるが、「法は知らしむべからず、頼らしむべし」の精神で、それを民衆に公示せず、司法関係の役人のみに示し、民衆には貞永式目(御成敗式目という)を習字の手本として使用せしめ、それとはなしに御成敗式目の法精神を諒解せしめる方法を採っておった。その御成敗式目五十一ケ條の最初の第一第二條で神社の祭祀佛寺の法要を大切に勤行すべく、神佛の冥助なければ、政治は穏やかに行えないと教えておるのであるから、その面目上、一方においては神社寺院には相当な敬意を払っておるのであるが、それとは別の他方において、天台宗や浄土真宗が織田信長をして処置なからしめた底力の恐しさを、決して軽視していない。それで比叡山延暦寺に対して、東叡山寛永寺を樹てて山門比叡山を牽制し、芝に増上寺を建てて華項山知恩院に脅畏を感ぜしめ、ある程度の成功を収めた。何となれば、表面上は、非常に好意を寄せて、将軍の膝下に、その子院を建て、将軍家の参拝に資するかに見せかけたのであって、裏面には意地悪い脅かしがある。世間は巧みな幕府の真意を推知することが出来なかった。
 織田信長が最も手を焼いた大坂石山本願寺に対しても何らかの手を打っておかないと、何時、一向門徒の一揆が起らないとは限らない。その宗勢を両分すべき機会を狙っておったが、幸にして教如の父に反する態度あるを見つけ、西本願寺の外に、いま東本願寺を建てたのである。表面はどこまでも教如の宗教人らしい雄々しさに同調した、かに見せておった。
 110代後光明天皇の承応2年(1653)それまで寺内にあった親鸞の店所を東山大谷に移し、寛文5年(1665)には学寮を興した。本堂は教如の時から6回の改築をしておる。即ち万治元年(1658)寛文7年(1667)119代光格天皇寛政元年(1789)120代仁孝天皇天保6年(1835)孝明天皇万延元年(1860)明治28年(1895)の6回であった。
 阿弥陀堂は桁行29間2尺、梁行26間2尺、高さ15間5尺。大師堂は桁行42間1尺、梁行32間3尺、高さ21間4尺。木造としては実に堂々たるもので、その偉容はさすがに東本願寺である。
 その外に大寝殿、自書院、黒書院、宮御殿がある。
 派祖教如は諸方に別院を興した。その数17ケ所に及んだ。それから第十六世一如に到るまでに十余ケ所を増加し、特に明暦3年(1657)には江戸浅草に、元禄2年(1689)には名古屋に、更に正徳2年(1712)には大坂難波に、それぞれ別院を造り、宗勢は西本願寺を凌いだようである。明治10年真宗東派といったが、18年大谷派本願寺と公称することになった。
 現況は国鉄の京都駅附近にあるので、入洛する各人にその存在は知られておる。その点で西本願寺よりも有利である。鳥丸通に面する総門、その北にある勅使門は、京都市のためにも、ありがたい大建築である。勅使門の偉容雄姿は見直されるべきではないか。
 境内東南に鐘楼がある。銅鐘一口がかかる。池の間に、天人と鳳凰とを鋳出し
 慶長九甲辰暦 五月廿八日 本願寺 信浄院
と陽鋳し、二方の縦帯に「大工 大坂浄徳」の陰刻がある。慶長9年は東本願寺創立の年号である。
 東本願寺より約一丁ほど東に東本願寺の別邸として有名なる渉成園がある。周辺に根殻の生垣を設けたので、根殻邸と通称される。この方が有名である。
 十三世宣如の時、寛永18年(1641)、徳川三代将軍家光から寺地の東方の東土手町に、新邸として26ケ所を与えられた。荒蕪地であったらしい。そこに邸が設けられた。伏見城の遺構を移したり、石川丈山が作庭したとも言われる。その頃には東の方は鴨河まで及んだ広漠たるものであった。
 宋の陶淵明の「日渉而成趣」という句から採った園名であって、徳川時代においても、洛中の名苑として頗る名があった。頼山陽も「渉成園記」をかいておる。
 孝明天皇の安政5年(1858)の火災に遇ったが、臥龍堂、御庭、御湯殿、代笠亭は焼失を免れた。漱枕居は半焼で残ったが、運悪く元治元年(1864) の維新兵火に禍され、悉く焼失した。
 その後、本願寺の力で復旧されたが、更に明治28年4月失火で園林堂は全焼した。やっと31年に再建された。
 現況は苑の西部に殿舎があり、その東に展開される大池を中心として、中島を作り、廻遊の出来るように塩梅してある。築苑当初は、桂離宮や修学院の山荘に匹敵した大規模のものであったろう。当時は十二景が選ばれておったという。
 ①滴翠軒(池と臨池亭あり)②傍花閣(数寄屋風の三門)③印月池(大池)④臥龍堂(もとの南島にあった)⑤五松塢(一幹五枝の松)⑥侵雪橋(北島に渡る橋)⑦縮遠亭(北島の上にある亭)⑧紫藤岸(後水尾天皇御下賜の藤)⑨偶仙楼(御殿の上にあった)⑩双梅簷(古梅数百株あり)⑪漱枕居(亭をつけた橋廊)⑫回悼廊(亭のある橋廊)⑬丹楓渓(紅葉の林)
 如何にも、丈山が参加したらしい漢学漢詩の臭いがする。
 渉成園は河原左大臣の河原院の後跡であるとか、その一隅であるとかの説があるが、少しく位置が違うように思う。南下しすぎる。
 が、ついでであるから河原院に言及しておく。
 嵯峨天皇の皇子にして臣籍に降下し、左大臣にまでなった源融が鴨河五條に別邸を営んで河原院といった。清和天皇貞観14年(872)に出来上がった。奥州塩釜の景色を模したというので有名であった。
 『拾芥抄』というかなり信用度の高い本に、その位置は六條坊門(いまの五條)の南、万里小路(いまの柳馬場)の東、8町の広さであったと記しておる。
 河原院の特に有名なのは陸奥の塩釜の実況を模そうとして、毎日120石の塩水を難波で汲み取らせ、淀川を舟運によって運ばせ、それによって、塩釜で塩焼く煙の真相を楽しんだということで、その風流が、長く後世に伝えられた。
 その風景の美しさに在原業平、在原行平が去来しておるし、融の歿後には紀貫之、僧恵慶、源順らも訪れ、ここで詩歌を楽しんだらしい。
 融の歿後、その子の昇が宇多上皇に献じ、延喜17年(917)、22年に御幸があった。その後、融の旧邸を融の二男であった僧仁康に下賜されて河原院という寺となり、南都大安寺の釈迦像を移して本尊とした。66代一條天皇正暦2年(991)3月に仁康はここで五時講を修した。76代近衛天皇の久寿2年(1155)3月火災に遭うて堂舎は炎上。間もなく再建されたが、83代土御門天皇建仁3年(1203)、10月また火災に遭い、残った佛堂は他に移され、その後は荒廃してしまった。その一部、東の方は鴨河の河原となり、西部は原野となり、長く狐狸の棲家であった。元亀天正の頃には、この荒蕪地にポツポツと寺院が建ったらしい。
 こうした河原院の変遷をたどると、いまの渉成園とは、寺地は接したかも知れないが、河原院の方が少しく上の方に当るので、渉成園を河原院の後身と見ることは、無理のようにも思われる。何とかして河原院の悌でも見ようとして、渉成園の中島の一部に平安時代の汀の面影がある、と説明する人もあるので、それを満更悪いとは言わないが、そのように強いて両者の関係をつけなくともよいのではないか。
 河原院で奥州塩釜の風景を模し、塩焼く煙を実態の通りに出すために、河水の蒸気でなく塩水の蒸気を必要とし、難波江から塩水を汲み採らせたという伝説について、一言してみたいのである。
 そこで源融の求めたものは、奥州塩釜というのは、塩釜という土地の名か、塩釜が出す蒸気の色か、ということに問題がある。地名か、作用か、の疑問である。遠くから塩水を汲ませたということになると、塩釜の出す煙の色が主眼であるやに思われる。
 一昔前、海浜に塩田を設け、濃厚な塩分のある塩水を用意し、それをそこにある塩焼く釜で水分を蒸発せしめて塩を採集したものであったが、そのとき塩水を燃やしておる藁葺や茅葺の小屋の屋根から昇る蒸気は、特別の白さを帯びておった。決して昔の汽車の機関車が吐く水蒸気の色と同様ではない。
 真水の水蒸気は純自で軽く、沖天に高く上騰するが、海水を蒸発させて出る蒸気は、やや黒味を帯びて、重い。高く騰らないで、早く消えて行く。
 さすれば奥州塩釜(地名)の塩焼く釜の実況を、真実の塩釜たらしめるためには、塩水を使わねばならぬ。そこに融の苦心があったのではなかろうか。塩釜という地名でなく、塩釜という働きであり、問題を押し詰めると、立ち昇る煙の色目になるのではないか。
 もしそうであるとするならば、河原左大臣の色調に関する感覚の鋭敏さに、尊敬の意を表したいと思うのである。
 色彩についての感覚の鋭さは、必ずしも源融だけではないのであって、当時の宮廷を中心とする文化人は、色彩については特別の関心を持ったのではないか。衣紋の色でその人の官位が区別されておるのであるから、色の相違が何物よりも気になるのであろうし、色の相違に留意しておらねば、どのような不調法が生ずるかも知れない。紅、紫には、その濃淡について幾十色の差異があったであろう。有職の装束を見ると、表と裏とに色の相違せるものを2枚襲ねて、特別の感覚色調を出した〝襲〟の発明は、全く恐しいような発明ではないか。世界の服飾界を見廻しても、〝襲〟のような妙味のあるものは、余り類例がないのではなかろうか。
 紅や紫や緑の濃淡とか、何度染めとかによる色調の相違差異は、誰しも知っておるかも知れない。少し気をつければ直ぐに判別が出来るかも知れない。むつかしいのは、白と黒である。殊に白である。詳しく言えば、白い色に幾百種の相違があると聞いたことがあるが、河原左大臣源融は、その白い色の類を、かくも微細の点まで識別しておったのであると知り、何ということはないが、嬉しい思いがするではないか。日本人は決して凡庸の人間でない実に鋭い智能の持主であると思う。
 お互にもっともっと尊敬し合おうではないか。
 因みに、河原左大臣が難波江で塩水を汲んだ遺蹟には、いま大阪梅田に太融寺という真言宗の大寺院が立っておる。左大臣融公の遺芳を千載の後に伝え残しておる。
 そうした遺蹟を、千年の後まで大切に保存しておるということも、日本人のえらさではないか。