佛教という言葉はやさしいが、その内容はなかなかにむつかしい。その上に〝佛教〟という言葉の中に含まれる内容も、極めて複合的であるのみならず、混雑したものがある。佛教ということは、その文字通り佛如来の教えということであるから、言葉を換えると、釈迦如来の説いた教訓であることに相違ないが、その佛説に関しての後世の佛徒並びに学者の解釈も、また佛教の中に含まれておる。その上に更に、その教理を人間生活に浸潤せしめんとする設備たる寺院も、佛教の一部であろうし、その本尊以下の佛像もまた佛教の一端かも知れない。寺院を中心とする信者の信仰もまた、たしかに佛教である。実に汎広宏博なる内容を有するものである。
 だから、次にしばらく用いる佛教という言葉は、佛説に対する後世佛徒の解釈をさすのであると、諒承してほしい。
 白鳳天平時代の佛教は貴族佛教であり、限られたる地位資格の人々にのみ有効であるから、それは一乗佛教と言われる。それに反して一般民衆を含めた総ての人にも有効なる教えであるとするのが、大乗佛教である。法相宗三論宗倶舎宗とか律宗と言うのは前者であり、東大寺の華厳宗になって、やっと大乗的になった。
 佛教は単一唯一たるべきであるに拘らず、それが大乗とか小乗とか言って異論反溌しておることは誤りであるからとて、伝教や弘法は大小二乗の存在を認めないで、一乗佛教を樹立した。それで佛教は単一合一のものになったかにみえた。たしかに一乗佛教で大小二乗は帰一したらしい。
 しかるに、その天台宗にしても真言宗にしても、すべての天地神佛山川万象を解明するに、それらを金剛界胎蔵界の両界の有象として説かんとしたので、尓来、平安朝を通じての思想思索は、金剛胎蔵両界の併立か対立かで論議され、論究されるに到った。少くとも両界の双立が本質であるかに考えさされた。それを疑おうとはしなかった。すべてのものは両界双立の中で片づけられた。
 それ故に、その波の及ぶところは、思想界は勿論、政界にも、学界にも、社会組織の上にも達し、且つその実現を見た。平安時代末期になると、すべてに両界の存在が顕著に目立った。例えば、

 天皇と上皇。皇室と摂関家。源氏と平家。政治と宗教。南都と北嶺。叡山と高野山。延暦寺と園城寺。金剛峯寺と根来寺。漢詩と和歌。和魂と漢材。真名と仮名。
 それらが進むと京鎌倉の対立となるが、摂関家でも分立して、近衛家と九條家との二派が出来た。
 公家と武家。朝廷と幕府。大覚寺統と持明院統。
 もっと小さくなって来て、伊勢神宮では内宮と外宮。春日神社では本宮と若宮。京都賀茂社も、上賀茂社と下鴨社。もう一つ言うと東福寺と南禅寺。
 東福寺と南禅寺とを対立させたのは、初めてであろうが、それは単に「東」とか「南」という寺号の上から考えついたものではない。その開山に深い関係があるからである。
 こうした対立の世相。それを考えて東福寺に参入してほしい。
 京童は、次のような戯れ言を並べておる。名言であろう。即ち建仁寺を〝学問づら〟大徳寺を〝茶づら〟と言い、わが東福寺を〝伽藍づら〟と呼んでおる。全くその通りで、もし奈良の方から京都へやって来るとすれば―国鉄で来ても、近鉄電車で来ても、また奈良街道を自動車で来ても、東山の裾に二棟の屋根を竝べておる大伽藍に眼を奪われるであろう。
 本寺の開山大檀那九條道家は本寺の創立に当って、その寺号を南都東大寺と興福寺とにあやかりたいという篤志から、両寺の一字ずつを衆字して東福寺と附けたと伝えておるが、実はそうではあるまい。この〝東〟の字は鎌倉を含んだ文字であろう。恰も後水尾天皇の中宮東福門院の〝東〟は江戸を意味しておるのであると同じ軌道のものであるまいか。
 それには、訳がある。
 藤原摂関家では有名な御堂関白道長の時に政権を一手に握って、同じ一族の藤氏の中でも断然、追従を許さぬ大勢力をこの一族で占めた。次の頼通以来、師実、師通、中心実と天下一の位置を持続した。中心実は富家殿関白と言われるほど天下一の富裕者であった。その子忠通は父に劣らぬ有力者で、京都の九條通鴨河東の広い土地に、邸を占めて、法性寺関白と言われた人であって、この頃が藤原摂関家のピークであった。
 その子が3人あった。六條殿関白基実。松殿関白基房。月輪関白兼実である。長子基実は24歳で早世したので、その嗣基通があとを承けて普賢寺殿関白と言われ、近衛家の始祖となる。次子は別に言い立てるほどの事もなかったが、三子兼実は類の稀な材人であり、手腕家であった。兄基実の死後、藤原氏の中心たらんと志し、何かにつけて活躍した人である。九條家の始祖となる。
 近衛基実が平家の姻婚関係にあったのに対して、九條兼実は鎌倉の源頼朝と結び、頼朝のためには随分と庇護的な態度をとって、幕府勢力の拡充には努めた人であった。祖父忠実の邸地に自分の居館を構え、後法性寺殿とも言われた。そこが月輪山の麓であったので、月輪関白殿とも尊称された大政治家であった。
 源頼朝の妻平政子とも良かった。
 鎌倉将軍家は三代実朝が外されて、後嗣がなかった。平政子は京都から親王の御一人を迎えて将軍に拝せんとしたが、後鳥羽上皇の勅許を得られなかったので、とうとう兼実の孫前関白九條道家の四男頼経を迎えて、鎌倉の主とした。僅かに3歳。摂家将軍と言われた。それは承久元年(1219)のことであったが、その3年に有名な承久役が起った。
 迎えられて鎌倉将軍となった頼経は、言うまでもなく鎌倉幕府の飾冠にすぎなく、政治はもとより、日常の生活においても、執権北條氏に掣肘せられ、何一つ意のままにならぬものだから、快々として楽しまず、寛元2年(1244)職をその子の頼嗣に譲った。新将軍頼嗣は時に5歳。
 頼経は、翌3年7月には出家して不満の色を見せたが、それは幕府に僅かばかりの痛痒を与えたかも知れないだけで、何の効果もなく、殆ど鎌倉に幽閉されておるような毎日であった。
 頼嗣もまた同様で、在職9年目には、とうとうその職を逐われる悲命に遇うた。
 実朝の死後頼経が迎えられたときには、鎌倉幕府と九條家の間は膠漆の親密さを見せただけに、頼嗣の放逐となると、却って九條家と北條氏との間は、反目の甚だしきものがあった。反目の隙間を狙う野心家には絶好の機会であった。
 如上の纏綿錯綜した歴史を知っておかないと、東福寺の根元は判らない。
 嘉禎2年(1236)後法性寺殿九條道家は、その住邸の一部を割いて、佛閣を創立した。東福寺と寺号した。
 本尊釈迦像は御法量五丈と称して、二丈五尺の巨大な座像であった。但人は「新大佛」と階仰したと言われる。何分、当時の摂関家には勿論、わが国力に照らしても、不相応な大造営であったので営々努力、数年の日子を費した。漸く寛元元年(1243)大陸において修行を終えた入宋禅侶円が弁円を迎えて開山とした。弁円は宋国において、名僧無準師範に提唱して法を授かり、仁治2年(1241)帰国。九州において頻りに法を鼓吹した。博多の禅風は京洛に聞えた。そこで道家は辞を低くして入洛を乞い、禅法を聴かんことを求めた。
 東福に入寺した日には、道家の外に岡屋関白近衛兼経(道家の女婿)、西園寺実氏(公経の子、道家の室は公経の女)、衣笠内大臣家良(近衛基通の弟、忠良の男)、道家の室綸子(西園寺公経の女)以下、文武百官相踵いで円尓を拝し、弟子の礼を執った。師の声望と道価とは、一時に、洛中洛外に雷轟したに相違ない。
 造営は道家の子一條家経に引継がれて終に建長7年(1255)6月2日に落慶供養の儀あり、円尓の払子によって開堂を荘厳した。
 造営中、日蓮上人も一材を寄せて恭賀したという華話が残っておる。
 すべての物が竝立する時代であったことはさきに言った。竝立はまた竝立を呼ぶ。終に林立になる。
 摂関家近衛家と九條家の両立が、更に進みて、近衛家から鷹司家が分れた。九條家から一條。二條の両家が分立した。ここに五摂家が生れた。この裏面には鎌倉幕府の政策が動いて、公家側をなるべく統一した勢力にせしめないで、分裂させておこうとする方針が立てられた。それで五流にした。鎌倉幕府は、承久合戦には真底から懲りて、なるべく京都側のすべてのものをして鷸蚌の争をせしめようと計ったものであった。
 九條道家の長子教実が家督をつぎ、次子良実は二條家を起し、三子実経が一條家の祖となった。何れも摂家将軍頼経の同腹兄で、西園寺公経の女綸子を母としたのである。
 同腹兄弟の間柄であるに拘らず、道家はどうしたわけがあったのか計り知れないが、三子実経に心を寄せ、次子良実を疎ずる傾向があった。
 道家は後深草天皇の建長2年(1250)11月に家領の処分帳を作って、東福寺及びその寺領並びに九條家の伝領地を悉く処分し、それぞれの因縁者に分与した。
 それによると東福寺関係のものは殆どを円尓上人に附与し、円尓上人以後の住職は、その時の家の長者が、器量のものを撲ぶべきであると言っておる。家領の方は、その大部分が一條実経に伝わり、二條良実には一指をも触れさせていない。
 そのことを知った良実は、とうとう幕府に密告して、道家がひそかに異策を講じておるらしい臭がすると通告した。果して九條堂の僧了行の密計なるものが暴露された。それが道家の示唆によるものであるかの噂が立った。その結果は建長4年(1252)2月21日道家は自らの開基した東福寺山内の光明峰寺において憤死するの悲劇となった。
 その後のある日、二條良実は先非を悔いて父の墳坐に謝罪せんとした。林風忽ち起って本の葉を散らし、それが良実の頬を打った。良実慟哭して「亡父なおわが面を打つか」と言い、葉を取り除けたが、その痕が痣となって消えなかった―という話を『増鏡』は記しておる。
 東福寺が一條実経によって落慶された由来は、以上でとけたであろう。
 東福寺の建立は東方鎌倉のためには、幸になったかも知れないが、九條家には禍根となったものらしくも思われる。道家は、その辺の仔細をよく洞察し、九條家の財産をして東福寺という異形のものたらしめ、それによりて伝統した所領以下を把握して置こうとしたものかも知れない。佛天の加被というものが、このような形式で示現されたとすれば、佛とは是に辱い存在ではないか。たしかに歴史の裏面であり、且つ真相であろう。
 伽藍は南を正面とし泮池・三門・本堂・方丈を中軸とする。その左右に東司、禅堂、浴室、経蔵等が附随する。
 三門はわが国最古の三門と言われるが、室町時代であろう。五間三戸、入母屋造、本瓦葺の楼閣で、両脇に山廊をつける。その手法の中に和様、唐様、天竺様を合含するのであるから、斯道者には好参考になろう。上層内部は兆殿司の筆と伝えられる極彩色であって、佛壇には釈迦像及十六羅漢像を祀ることは、一般の型の通りである。
 明治14年に失火があって本堂方丈を烏有に帰したので、それは幸に再建はされておるとは言え、境内の古建物として見るべきものは二、三しかない。その一は南北朝時代の東司であって、最古の厠であるという。一般受けがしておる。それよりも同時代の愛染堂の方に、心ある人の心は惹かれる。もと万寿寺のものであった。
 その前にある月下門こそ、本寺第一等の雅趣ある四脚門である。文永年間に宮中にあった月華門を下賜されたものである。この門前に立って、秋天の満月か残月かを眺めて見たいと心願すること、30年。まだ果せない佛罰者を哄って下さい。
 通天橋から導かれて歩廊を登ると常楽庵に達する。門内は白砂の庭で池の姿も悪くないが、江戸時代の作庭であるだけに、少し混雑しすぎるほど木石がある。正面屋上の伝衣閣も異様ながら、ここが開山弁円上人の店所である。この一画は、感心するほどでもないが、相当に賑やかである。現今の人々には愛されるものか、常に三五の拝観者がある。この東側に一條家の墓所がある。鎌倉時代以降の宝筐印塔が群立する。
 京都の人には東福寺と言っても知らぬ人が多いが、〝通天〟とし言えば、直ぐに首肯される紅葉の名所である。
 境内を流れる深い渓谷「洗玉潤」に架かる3つの橋廊。その一つの偃月橋は慶長8年、第二の通天橋は、桃山様式の架橋。第三の臥雲橋といわれるところは弘化4年の改造にかかる。
 脚下の紅葉を俯敵するに良く、川上の楓葉と対するに良く、周囲の黄葉と物語るに良く、楓錦碧渓の趣は、たしかに京洛第一の風致である。通天の紅葉を見なければ、語るに足りないと言われた。
 今は楓葉を観て、眺めて、酒を温め、詩を吟ずるような風流佳人は根絶したので、通天のなつかしい昔の姿は、名所図絵で偲ぶより外はない。
 東福寺の名物は方丈の庭である。入口から方丈への渡廊下には、奇石を並べて北斗七星に擬した石庭がある。方丈の西面と北面とは、青苔と白砂とを巧みに元禄模様式に配合した新機軸の作庭がある。重森三玲氏の考案である。碧咬二色の色の鮮かさは、さすがにと思う。同時にその手入れの困難さにも同情をする。
 禅寺の作務は、境内の清浄潔白さにある。凛とした宗風が動くことにある。伽藍の高壮にある。
 境内には塔頭が多い。
 偃月橋を北に渡ったところの龍吟庵は、南禅寺の開山になった大明国師普門の庿所のあるところで、その方丈はわが国最古の方丈であるともいう。正面に国師の木彫座像を祀る。先年、その胎内から臓物が見出されたので学界の注目を浴びた。その一点は無縫塔の中に収めてあった国師の遺骨を容れた鋼製骨蔵品でそれに、
 正応四年辛卯十二月十二日于時東福禅寺師霊骨龍吟補□
と針書をした銘があった。やっと読み取られるほどの細さであったことは、何やらん禅宗の皮肉に触れたようで、畏い極みである。
 芬陀院の庭園は一條禅閤兼良の作とも言い、画聖雪舟の造築とも伝えられる。枯山水庭で、120坪ばかりの苔地に、鶴島亀島があったらしい。亀島は俤を存するが、鶴島の方は原形を偲び得ないまでに崩れておる。
 近来、住持の温かき心から、手入れがよく行届いておるので、必ず見るべき苔庭の一つであろう。
 同聚院の丈六不動明王像は、もと法性寺の五大堂本尊であったと思われる雄像で、俗に十万不動と言って、火難除滅福徳円満子孫繁昌の霊験を願う信者で、常に賑やかである。
 東福寺の伽藍づらに、少し化粧水でもつけたいように思う。資生堂にでも頼んでみようか。カネボウにしようか。