亡き父母への感謝①
「三丁目の夕日を観るとショーワさんのお父さんを想い出すよ・・・・」
映画「ALWAYS三丁目の夕日」の鈴木オートの親父さんが若き日の私の父親とだぶる。
何人もの年長者に聞きました。
前回のブログで当店会社設立60周年を書きましたが創業者は先代の父親です。
市役所、さいか屋さん、警察官等・・・上司と喧嘩をしては会社を辞める。
人に使われるのが大嫌いな人のようでした。
我が町に商店街が建設されるのを知り中村商会というお店を始めました。
昭和28年頃の事らしいのですが。(正しくは聞きそこないました)
文房具、家電、自転車、オートバイなどを売っていて父親の妹が洋裁を教えていたそうです。
母がお嫁に来た頃は自転車が一台しかなくナショナルの電気屋という感じだったそうです。
子供の頃、蓄音機から流れる♪明る~いナショナル、明る~いナショナル、ラジオテレビ何でもナショナル~♪という歌を聴いた覚えがあります。
今では言う人はいなくなりましたが当店の当時の通称は「ラジオ屋」です。
電気屋だった為にテレビが初めて店に入った時は大変だったそうです。
当時、テレビは衣笠駅の街頭テレビ、池上十字路の川名電気さん、そして当店。
3台しかなかったからです。
テレビを観たい人で連日大賑わい。
親父は店を劇場のようにしてお客様に見せていたそうです。
3丁目の夕日のテレビのシーンと同じです。
お客様はスイッチを入れる前に拍手をしプロレスに大声を上げて声援していたそうです。
店の前を走る京急のボンネットバスが溢れ出た人を避けるように反対車線に迂回しながら走ったという伝説もあります。
自転車部門は自転車屋が多かった為に大手のメーカー(山口、宮田、冨士、丸石・・・等)とは取引してもらえず当時二流メーカーだったブリヂストンを扱ったそうです。
無名のメーカーがその後、国内トップメーカーになるなどその時、父は全く想像も出来なかったようです。
オートバイは昌和(現ヤマハの傘下)と取引し地区の代理店になったそうです。
当店の社名「株式会社、横須賀昌和モータース」はこの昌和のオートバイからきています。
日本全国にある地域名を付けた昌和モータースは皆この名残だと思います。
昭和31年、中村商会は法人化します。
資本金40万円です。(当時の株式会社設立最低金)
その後、自動車の整備(車検工場)をはじめて、店は三丁目の夕日の鈴木オートさんのような感じになります。
3輪のミゼット等があり油臭く、よくジャッキで遊びました。
続く。
P、S、
朝、目覚めると部屋に温かい日が差し込んでいました。
窓から外を見るとまぶしい朝日が目に入りました。
この部屋から朝日が見えるのは年間何日なんだろうな?
太陽の位置は日々変わるからなぁ・・・・。
そんな事を思いつつもこの部屋から初めて見た朝日に少々感傷的になりました。
亡き父母への感謝の日に見た朝日。
私は一生忘れることはないだろうな。
還暦を迎えたこの日の。