2/11(日)うき山の会定例登山・四王寺山。

 

 

野外音楽堂にて昼食休憩。

尾根道を吹く風は冷たかったが、野外音楽堂のスタンドに腰掛けると、風が避けられ日が照るので暖かい。それでも昼食を済ませることには身体が冷えてくる。身体を温めるにはじっとしてないで、山歩きを始めるにしくはなし。

 

 

四王寺山で一番高い山、大城山。

四王寺山に来たのは、うきやまの会定例登山担当者一人を除いて、初めて者ばかりなので、「おおしろやま」と言いながら歩いていた。ところが歩いている途中で下って来る人とすれ違うとき「おおぎやまですか」と声をかけられる。そこではたと気がついた。あっ、“おおしろやま”ではなく、“おおぎやま”なのだ。そしてその意味するところは大きい城の山なのだと。


 

大野城市の市名の由来となっている「大野城」は、大野城市・太宰府市・宇美町の3つの市町にまたがる巨大な朝鮮式山城です。
大野城がつくられたきっかけは、663年、朝鮮半島の南部にあった百済(くだら)という国を助けるために送られた日本の軍勢が、白村江(はくすきのえ)という所で唐(とう)・新羅(しらぎ)の連合軍と戦い、大敗北したことにはじまります。これに驚いた日本ではすぐにも唐・新羅軍の来襲があると考え、敗戦後数年のうちに各地に城を築き、防人(さきもり)を配置し、全国的な防衛体制を整えました。大野城もそれにともなって665年、佐賀県基山町にある基肄城(きいじょう)とともに九州の政務をつかさどる大宰府を中心とする防衛システムの一環として造られました。
今現在、大野城に当時の建物は残っていませんが、古代の山城の姿をほうふつとさせる見所がたくさん残っています。

 

 

もう一つ登山路で見かける標識で気になることがあった。それは広目天(こうもくてん)などの表示。これも大野城市ホームページから以下に引用させてもらう。

 

大野城跡は四王寺山(しおうじやま)とも呼ばれます。大城山(おおきやま)が正式名称ですが、奈良時代(774年)に持国天(じこくてん)・増長天(ぞうちょうてん)・広目天(こうもくてん)・多聞天(たもんてん)(=毘沙門天:びしゃもんてん)の四天王を祀った四王寺(四天王寺:してんのうじ)が建てられたため、四王寺山と呼ばれるようになりました。

 

(続く)