なぜ『檸檬』を読むのか。
それは次のようなことからだった。
ブログに「こんな本を読みました」というのを「積読になった本」というテーマでアップしている。少し前に東野圭吾『分身』をアップしたとき、文庫本の表紙は鏡に映るレモンの写真。
それを見たブロガー“ぷにょ”さんは、梶井基次郎『檸檬』を読み、なにかしら『檸檬』に深く関っているときだった。
「おお、このレモンつながりはなんだったのだろう?」。
“がね”さんも『檸檬』を読んでみたらどう?
ま、このようなことである。
ならばと、落語に出てくるような長屋の粗忽者の“がね”さんは、早速にネットの青空文庫を開いて梶井基次郎『檸檬』をプリントアウトする。そして『檸檬』文章を眺めると、すぐにあることを思った。
ああ、これは朗誦にちょうどぴったりの文章だ。
かつて朗誦の会というのに所属していたのであるが、松尾芭蕉『おくのほそ道』を丸暗記して朗誦することを基本としながら、自分が好きな文章を選択し、それをレパートリーにする。そのような活動をするサークル活動の一員だった。
その朗誦の会は解散したし、飲み会で集うことをしなくなったけれど、仮に今も続いているとしたら、この梶井基次郎『檸檬』がレパートリーとするにふさわしい文章だと思ったのである。
なんというか、文章を味わう。
雰囲気を味わう。
詩のような味わいがある。
おそらく会員が喜んでくれる。
共感を覚えてくれる。
そんな風に思う。
だがしかし、朗誦の大前提として、文章を読み理解しなければならない。
理解できなかったとしても丸暗記する。
文章から醸し出される雰囲気を強く感じるけれど、なかなかすんなりとは身体に入って来ない。
これは時間をかけて『檸檬』に浸ってみなければならないだろう。
ちなみに東野圭吾『分身』の文庫本表紙を再度アップしてみると