4/1(日)東陽石匠館前にて宇城文芸誌「しらぬい」の会員の記念写真撮影。
そこから歩いてすぐのところにある橋本勘五郎の墓を訪ねるのであるが、橋本勘五郎について記しておこう。これも上塚尚孝さんの文章からの引用である。
種山の夘助、夘一、丈八の3兄弟は1840年ごろから、霊台橋や通潤橋の工事に携わり、丈八はその後、橋本勘五郎と名を改め、明治初期に東京へ出て神田筋違橋(万世橋)や浅草橋の工事も手掛けている。種山石工の腕と名を全国に知らしめた。ちなみに、一部では勘五郎らが皇居のめがね橋も建造したとの伝承があるが、これは事実ではない。東陽石匠館はこの勘五郎の生家の前にある。
ここから余談であるが、高校のときの同級生が旧姓橋本さん。彼女は県立高校の国語教師をしていたのであるが、種山の出身であり
「あ~たは橋本勘五郎の子孫ね」
と尋ねたことがあり
「うん」
と軽くうなずいた。
そのことを上塚尚孝さんに質問してみると、
「間違いない。彼女は勘五郎の子孫である。」
との答え。
40年を経て彼女の生家を知ることになり、そして生家の裏にある勘五郎の墓参り。
さくらの季節、墓石の周囲には草花が咲き誇っていた。(続く)






