明治10年西南の役における薩軍は、谷干城が立てこもる熊本城を包囲しつつ、三の岳、吉次越、半高山、横平山、田原坂の横一線に保類を築き、陣を敷いた。政府軍は山県有朋を総帥として木葉に前線基地を敷き対峙した。
田原坂における薩軍と政府軍との戦いが始まると、士族が中心の薩軍の個人的力量が平民をかき集めた政府軍に勝るが、兵の装備と資金力、そして電報を使っての情報伝達では政府軍が圧倒する。
田原坂において、まさに一進一退の攻防が続けられ、その様は壮絶にして凄惨を極めたようである。
八方ケ岳山頂より一の岳(金峰山)二の岳、三の岳を望む。
三の岳から吉次峠、半高山、横平山、田原坂に続く稜線が、薩軍と政府軍とが激突した場所である。
がねごときが詳細を語る必要はない。がねと同じく司馬遼太郎「翔ぶが如く(九)」を読んでいただけばよい。熊本県内における薩軍、政府軍の動静が要領よくまとめられているので、二日もあれば読み終える。
印象として西郷は薩軍の飾りの如くにして精神的拠り所であり、幕末における人切り半次郎こと桐野利秋が戦術面における指揮者であった。総合的に判断して薩軍が政府軍に勝つということは至難の業と思われるが、それでも戦術面での巧拙が戦いの明暗を分けることがあり、一つ間違えばどのようになったか分からない。そういう点で桐野利秋は総合的な判断力に欠けていた。
一方の山県有朋は個々の戦闘における判断力に欠ける面があったが、総合的に戦局を支配する兵站を整え、圧倒的な兵力を整える能力があり、容易に負けない欧米的な戦略を持っていた。およそこのようなことが司馬遼太郎によって書かれている。
こんなことばかり書いていては、おそらく多くのブロガーさんにそっぽを向かれて「しらぬいのがね」へのアクセスが激減するであろうから、とりあえず司馬遼太郎「翔ぶが如く(九)」についてはこのくらいにしておこう。


