コーシンくんとがねは高校、大学のとき一番の親友だった。


その頃はコーシンくんの家に入り浸りだった。

入り浸りだったのはがねだけではなく、多くの同級生がそうだったのだけど・・・



あまりに頻繁にコーシンくんの家に入り浸っていたことは若気の至りで、その後、少しは世の常識というものを知ると、常軌を逸していたようだと思い始める。

そうすると今度は自分の幼稚さが恥ずかしくて仕方がない。

顔を合わせることが憚られた。


それに加えて、大学卒業後は将来の進路も定まらず、さ迷っていて、そのことを人に話すことが苦痛であり、かつての友人知人と顔を合わせなくなってしまう。

コーシンくんとは入れ違いに、がねが東京横浜で8年間も暮らすようにもなり、多くの人と疎遠になってしまった。

調布の国領から八代に引き上げてからも、そんな状態が続いた。


その当時、コーシンくんの母は今から思えば当然若かったわけで、病弱で活発な人ではなかったがやさしくてきれいだった。自分の子に対すると同じように接してくれて、いつでもご飯を食べさせてくれたし、コーシンくんが「泊まっていけよ」と誘ってくれれば、「うん」とそのまま泊まったことも数え切れない。


そんながねに陰であきれていたかもしれないが、おくびにもそんなそぶりを見せなかった。いつも変わらずわが子のように接してくれた。

この人が言ってくれたのが

「○ちゃんは私が作ったご飯をうまそうに食べてくれる。こんなにうまそうに食べてくれる人を他に知らない。だからご飯を食べてもらうのがうれしい」。

これは横浜のカネコくんの母親からも言われたことがあって、生来のものなのかもしれないけれど、そんな風に可愛がってもらった。


実は、40年間コーシンくんの両親にあっていなかった。

挨拶もしてなかった。

何という恩知らずなのだと自分を責める気持ちがある。

だからこそますます会えないような気がしていたのだけど。


通夜式で、コーシンくんの父親には会って無礼だったことの詫びを入れた。

以前の変わらないおおらかさで受け入れ喜んでくれた。

コーシンくんの母にも、亡くなる前に会っておくべきだっただろうか。