その頃を振り返ってみれば、世はまさにバブルの時代で、選ばなければ仕事はいくらでもあった。例えば、アパートの近くに“みっちゃん”という居酒屋があったんだけど、一人でカウンター席に腰掛けて飲んでいると、他の客がやってきて、客が無職だ知るとすぐに「うちの仕事を手伝ってくれないか」と誘ってきた。三十歳過ぎのその男はペンキ屋というか、外壁塗装の吹きつけ工事の請負をやっていて、話を聞けば相当に危険な仕事だと思われ、とても自分にはできないと断わっても、「一日に2万円支払うから」としつこく勧められた。それくらい仕事に不自由しない時代だった。世の中全体が浮かれているような、活気に満ちていた。日吉コンプレックスという名の草野球チームがあって、試合があればメンバーが足りないからと声をかけられ、試合後は打ち上げが日吉駅前の居酒屋で行われた。やがて草野球のブームが去り、チームのメンバーが集まらなくなった。今から思えばのんきな話であるが、その中の誰かがR&Bのバンドをやろうじゃないかと言いだした。できるかどうか自信はなかったが、その話は盛り上がり、本当にやることになった。皆がマジにそれぞれのパートの練習をしたし、黒人のミュージシャンが来日すればライブハウスに演奏を聴きに行くなどして、結構入れ込んだ。R&Bのバンドをやるというのは失笑を買うというか、少なくともいい年になった大人がやるのはほめられることではなかったけど、世間の目を気にする必要はなかった。周囲の人たちは苦笑しながらも面白がってくれた。それは貧乏を気にしなくてよかったのと同じで、都市にはとてつもない金持ちがいるかと思えば、考えられないほどの貧乏な人もいる。要は、いろんな人がいるのであって、それが当たり前で、貧乏だからといってどうということはない。時代の空気がおおらかだった。