5/4(日)は午前11時半から熊本テルサにて、父の50回忌と武揚の古希の祝いを兼ねてファミリーの集まりがあった。
がね、カミさん、タロー、ジローの4人が出席。
ジローはアパートから水前寺駅まで歩いてきて、駅で11時に合流し、4人そろって熊本テルサに向かった。
集まった人数は30人ほど。
午後3時に解散するまでの3時間半の間にいろいろあったが、その中から1つとり上げてみる。
古代百済の最後の都だった扶余(ふよ)のこと。
第2次世界大戦前、日本が朝鮮を統治下に置いた時代があった。敗戦後、がねの両親と姉2人、兄3人が朝鮮からの引揚者となった。その引揚者となる前に住んでいたのが、扶余。
今年、兄弟がそのルーツをたどる旅をした。長姉、次姉の二人は子どもの頃の記憶があり、父が校長として勤めた小学校がそのままの場所にあった。
韓国の地図を広げても、扶余は直ぐには分からない。歴史上の都市であり、現在も繁栄しているのではない。朝鮮の古代、三国時代と呼ばれる地図を思い浮かべると、北の方から高句麗、南東に新羅、南西に百済が位置する。話を聞くだけでは分からないことが、写真を見ながら説明を受けると、身近で具体的になる。
がねは戦後生まれであるから、直接に朝鮮との関わりはない。戦後のことは知っているが、戦前のことは知らない。戦前のことが少しだけ明らかになった。姉、兄たちにとっては、これは死ぬための準備なのだという。
ちなみに嫌韓が広まった日本人としては、韓国人の日本嫌いがどの程度のものか測りかねるのであるが、実際に扶余に行って接した韓国の人たちは皆フレンドリーで、特に何事かを意識させるようなことはなかったという。


