昨年12/22(日)金峰山を歩いた帰り道、運巌禅寺を訪ねた。事前の知識もなく、案内表示板の記述を見て、気まぐれに立ち寄ったに過ぎない。


そのとき「運巌寺」というパンフレットを持ち帰っていた。目を通すこともなく、放置していたのだが、食卓にあるのを見つけた。見ると、なかなかよくできている。


霊巌洞は今も、昔のままです。

武蔵・終の棲家。

そのときのまま、日本の聖地。


武蔵は「五輪の書」の巻頭にこう記している。

「……寛永2010月上旬の比九州肥後地岩戸山に上り、天を拝し、観音を礼し、仏前にむかひ、…(中略)…天道と観世音を鏡として、1010日の夜、寅の一てんに筆をとって書初るもの也」と。

寛永20年(1643年)。武蔵は2年後(1645年)に没した。


まずは、宮本武蔵の晩年、霊巌洞に籠っていたのだという。武蔵に精通する人は多いだろうが、この場所を訪れたことがあるという人は少ないのではないだろう。

へ~、な~んにも知らなかった。


もう1つが“桧垣”。“桧垣”と言われてもねぇ、何のことやらですけど。

能「桧垣」といえば、ん!?

どこかで聞いたような、観たような気がしないでもない。

そういう人がいるかもしれない。

もちろん、がねは何も知らなかった。


平安の頃、この観音さまに日々水を供える桧垣と呼ぶ老女がいた。

能「桧垣」(室町前期)の代表作「桧垣」は霊巌洞が舞台の物語。

冒頭に

「これは肥後の国岩戸…ここに百にも及ぶらん老女毎日閼伽の水を汲み来り…」。

物語と舞台は意外な展開をしていく。当時から岩戸観音は全国的知名度があったことが分る。


などというようなことがパンフレットの記されているのだ。

制作にあたった人は、次のように記している。

「私は心に悩みや葛藤が起ると決ってお詣りに行く。格子戸の奥に鎮まる観音様に念を通じるとき、心は「桧垣」に遊び、武蔵に近づくのを感じる。この地が観光化されることなく今に在ることに感謝したい。

武蔵は永遠 霊巌洞は不変不滅。」