5/29(水)朗唱の会カレエダ会長の1周忌法要が予定されている。生前法要であり、1年前の病気からの生還祝いなのだが、もし死んでいたら丁度1年になるというもの。あくまで朗唱の会の趣向であって、がねには、会の冒頭、方丈記の朗唱(3分)の役割が与えられた。


 朗唱の会に所属して、宴会の席には必ず顔を出すのであるが、朗唱に関してはこの1年というもの身が入らず、無為に日々を過ごした。全くもって何の蓄積もない。何にもできない。


 困ったものだが、酒を飲んだ席では気が大きくなってほら吹きになる性癖があって、できもしないことを楽にできるかのような言動をしてしまう。後悔しても、前言を翻すのは難しく、何とかつじつまを合わせなければならなくなる。


 方丈記の朗唱(3分)に向けて、ともかくアクションを起こさねばならない。5月中旬まではヒマだというのだから、やるなら“今でしょ”ということだ。


 “言うは易し、行うは難し”、これは名言であって、上の段が“少年老い易く、学成り難し”だったっけ。学が成るなどということはあり得ないのだけど、朗唱3分をものにしなければならない。


 こんなことをぐだぐだ書いているヒマがあったら、朗唱に向けて時間を割けばいいのだ。だけど、時間を割いてすぐにできるのならやるが、何度トライしても容易に身につかないから、やる気が失せるのだ。


 東京出張に際して、交通機関で移動中が勝負なのかもしれない。それまでに少でも進めておかなければならないと思っているのだが、小中学生の宿題のように義務的、受動的で、侘び寂びとは無縁であるところが、情けないというか、悲しい。


 そうは思うが、俗世の埃にまみれ、時間に追われながら生きているのが現実である。だからこそ、そういう現実の中に朗唱をとり入れると、束の間ではあるが、一服の清涼剤になるというか、非現実の世界に遊ぶことができる。これこそが朗唱をやることの意義なのだ。


 方丈記の朗唱(3分)と指名されたことから、しかたなく始めたのがホントのところだけど、新井満「方丈記」を手にとって読み始めると、2回目になるのだが、なかなかうならせてくれる。それに読みやすく、分かり易い。


 しつこく、くどいと思う読者がいるのかもしれないが、がねくらいの学力の者にとっては丁度よいのだ。それでも、「方丈記」は奥が深いから、それで全てが分かるということにならないが、読み始めたらやめられなくなって、自然に朗唱をしてみたいという意欲が湧いた。その意欲が持続するかどうか。


 これから先は、成り行きだな。