カレエダさんが蓮如について書いていて、興味深い。カレエダさんの指摘は、事実として正鵠を得ている。宗教のありようを問い続けている立場から、鋭い批評精神が如何なく発揮されている。


 皆さんにも見ていただきましょうか。

 こちらから、どうぞ。

http://sky.geocities.yahoo.co.jp/gl/thetwilight47/view/20130121/1358773192  

 そして http://sky.geocities.yahoo.co.jp/gl/thetwilight47/view/20130122/1358863832  



 さて、がねはまさに積読になった本といっていい五木寛之「蓮如―われ深き淵より―」を本棚から引っ張り出してみた。以前、ざっと流し読みした記憶はある。


しらぬいのがね-蓮如


 京都本願寺の貧しい暮らしの中で、どうすれば宗祖親鸞の教えを広めることができるのか、苦悩する蓮如の姿が描かれている。


 蓮如は長子だが、母は卑しき身分の者であった。父である法主が正室を迎えたとき、蓮如を残し、母は姿を隠した。母が幼い蓮如に残した言葉は「わたしを思い出すときには、おねんぶつをとなえなされ。ただ、しんらんさまについていくのじゃ。そして、おねんぶつをひろめなされ」。


 ここは作者の創作であろうが、蓮如はこの言葉を生涯かけて実現していくことになる。それから門徒衆の支持を得て法主になるプロセスが描かれる。


 門徒、堅田の法住が蓮如に言う「親鸞上人は他人にかつがれるようなお方ではない。ただひとり、冬の枯野を歩いていかれるヒジリだ。聖人は念仏の種をまかれた。あんたは萌えはじめたその芽を、枯れないように育て、鳥に突っつかれないように守り、正しく大きくのばして豊かな実をつけさせるために仏に呼ばれたお人」。


 このようにして蓮如は法主の座につき、それから蓮如の御文ができるまでの苦闘が始まる。でき上がった御文が親鸞の教えを民衆に分かり易く伝えることに果たした功績が描かれる。


 確か、しのぶたけさんが、いつぞやの折り、この御文を朗唱したことがあったと思うのだが…。


 蓮如が50歳代の頃まで本願寺は領地を持たず、もっぱら門徒衆の支援によって生計を立てていた。蓮如は精力的に各地を回り、念仏の教えを広める活動に専念する。その間、門徒衆は蓮如を支えながら勢力を拡大させていくのだが、世は応仁の乱の時代となり、都では餓死者が後を絶たない。


 さて、蓮如が次々に子を成した並み外れた精力の持ち主であったのは疑いの余地がない。それくらいの人物でなければ、とても人並み外れた精力的な布教活動はできなかったであろう。やがて蓮如は命を狙われ、山門からの弾圧を受けるようになる。


 カレエダさんの論述は、主に蓮如が60歳を過ぎ、85歳で没するまでのこと、そして門徒衆の宗派への関わり方について書かれているのだが、毀誉褒貶、概して蓮如を褒める人ばかりであろうから、たまにはカレエダさんのような辛口論評もいいのではないか。カレエダさんの妄想と錯覚論にいささか異を唱える人があるかもしれないが。