みどさん、娑婆神(サバガミ)峠をとり上げてくれてありがとう。


 職場への最短距離で、みどさんの通勤路であるとは知らなかった。昔からある小川と豊野の山を越えて結ぶ道路なのですね。


 がねはまだ一度もサバガミ峠道に足を踏み入れたことがないのですよ。それどころか、中小野のどこから入る道なのかさえ定かには知らないのです。


 マップから推測して「正寿寺のあるところか」と、北小野に住む職場の同僚に尋ねたところ「そうです」という答えだったから、おおよそのことは推測できました。


 後は、実際に現地に行ってみて、人に尋ねながら歩いてみようかという、いつもの行き当たりばったりプランです。いつ行くかも、時間があったときにといういい加減なものです。


 娑婆神(サバガミ)峠をなぜ知ることになったかといえば、嶋谷力夫さんからいただいた郷土誌「燎火(かがりび)」第19号に論考「薩摩街道小川宿と娑婆神峠道」があって、偶然目にしたからの事でした。


 「知らない町を訪ねてみたい」というのがまずありまして、何に出くわすか、これが楽しみです。それから、歴史を少しでも知っていれば、時空を超えたイメージの世界に遊ぶことができます。


 ということで、娑婆神(サバガミ)峠道をウォーキングするときが近づいてきましたよ。


 娑婆神(サバガミ)峠について、郷土誌「燎火(かがりび)」第19号、内山幹生さんの論考「薩摩街道小川宿と娑婆神峠道」から一部引用させていただきます。朗唱の会のしのぶたけさんの触手を動かすことになるかもしれないなどと思いながら・・・。


 この街道は、古来より交通の要衝であり、要害の地でもあった。折々に、歴史の転換点で世間の耳目を集めている。天正9年(1581)、相良義陽は、島津義久より阿蘇氏攻撃を命じられ、八代古麓城より出兵し、阿蘇氏の出城たる甲佐城と堅志田城を攻め、これを落とした。しかし、響ケ原(現宇城市豊野町糸石)に本陣を置いた義陽は、かつての盟友である阿蘇家の重臣甲斐親直(宋運)の奇襲を受け、戦死する。主将を失った相良の軍勢は、ほぼ壊滅状態となり、一部は娑婆神峠を越えて敗走した。


  響ケ原は、娑婆神の峠道を下りきった正面に位置している。すなわちこの峠は、相良軍の攻撃路であり退却路であった。攻め上がるより攻め下る方が有利なことは軍事の定石である。したがって、阿蘇家側の奇襲を避けるため、古麓城発した相良軍は、出陣当日、この峠から攻撃方面を見渡せる最も眺望の開けた場所を選び、本陣を布いた。翌日、峠を下りて響ケ原に本陣を移すが、結局このことが、相良勢の命取りとなったのである。


 がねがみなさんに先行して娑婆神峠に行ってきます。どんなところか、歩いてみます。娑婆神峠の道は片道およそ3キロの上り下りだから、往復6キロ。山道の6キロはかなりの距離がありますが、よいウォーキングができそうな予感、なんか楽しみになってきましたよ。