月山は肌に合う好きな小説だと思う。これまでに一番身近に感じた小説は、尾辻克彦が野間文芸新人賞を受賞した「雪野」である。
これは実際につき合いがあってというか、友人として関わりがあった人を主人公にした小説であるから、人ごとながら、我がことのように身につまされながら読んだ。それに登場人物の二人が情けないような青春を送りながらも、文章はなぜかユーモラスでしみじみとした味わいがある。
月山は、作者森敦が39歳のときに体験したことを、年を経て、還暦になってから小説にしたものである。その若いとき、何年もかけてやっと辿りついた思いのするところで、何もしないでひと冬を過ごした体験をつづっている。月山の懐に抱かれることの意味を問う。鳥海山が生、月山は死を象徴している。月山で暮らすことはあの世を生きること。こちらも月山で暮らす人々のたくましさがユーモラスに語られる。しみじみと味わい深い文章であった。
例えば、次のような内容の部分がある。
要約すると
寺の本堂で念仏のあとの無礼講がはじまった。そこに呼ばれたわたし。「わたしをこの世の者と思えば、呼んでくれるはずもない」。わたしはあの世の者とみなされたのであろうか。そこで、いつぞや山道で出会った女と再会する。女が言う「おらはもう、この世の者でねえさけの」。(女は未亡人になったようだ)。わたしが寺の2階の広間の一角に和紙でつくった蚊帳の中に寝泊まりしていることを女は知っていた。「和紙の蚊帳どげなもん?」「繭の中にいるようなもの」蚕は繭の中で天の夢を見ているという。いつかは飛び立っていくのだ。
これはファンタジー。
月山も今ではすっかり観光地化してしまっていることであろう。そして、夏の終わりには、観光客の一人として観光バスで月山を駆け抜けることになる。月山の観光は夏の2ヶ月限定なのだ。おそらく小説月山の世界を感じることはないであろう。しかし、遠くから眺める月山や鳥海山は、今も昔も変わらぬ姿を見せてくれるのではないだろうか。
