宇土城について、ここ数日で理解したことを簡単にまとめてみたいと思います。
その前にお断りをしておきます。がねはそもそも熊本の歴史に関心がありませんでした。ところが、朗唱の会を通じて、しのぶたけさんという方と知り合うことになります。しのぶたけさんは尺八の名人ですが、歴史が好きで、休みとなると名所旧跡を訪ね歩きます。奥様のホタクボンヌさんによれば、しのぶたけさんは歴史が透きというよりも調べること自体が好きなのだそうです。
しのぶたけさんの案内で、地域の歴史探訪を昨年数回体験させていただきました。がねがいまだに無知であることに変わりはありませんが、少し興味がわいてきました。それに、時間があればウォーキングの目的で出歩くのですが、そのついでに知らないことを知りたいと思うようになったのです。そんな訳で、先週の土曜日、宇土城址と白山に出かけたのでした。
そこで、宇土城について戻りますが、平安時代に宇土氏が西岡台と呼ばれる地に城を作ったのが始まりです。その後、菊池氏、名和氏など入れ替わりがあったようですが、そこまでの知識を持ち合わせてはいません。いずれ、しのぶたけさんから教えていただくことになるでしょう。これが、中世宇土城というものです。
豊臣秀吉の時代、小西行長が、秀吉の挑戦征伐から関ヶ原の戦いまでの間、宇土の地を治めるのですが、西軍に属した小西は徳川家康によって滅ぼされます。その間に小西行長が作ったのが、近世宇土城です。これが現在の宇土高校と隣接した場所にあります。
近世宇土城は小西行長から加藤清正に引き継がれますが、清正の没後、徳川家光から謀反の疑いがかけれた加藤家は改易となります。その後、熊本に来たのが細川忠利ということになります。肥後細川の支藩があった宇土には街中に役所を設け、城を持ちませんでした。
その頃、徳川幕府は1つ国に1つの城をいう政策を進め、それ以外の城を壊すように命じました。加藤清正が作ったとされる城が、熊本城の他にもいくつかありましたが、全て壊され放置されました。小西行長が作った近世宇土城も同じく放置されたまま今も無残な姿をさらしているのです。
近世宇土城址には、子供が高校生の頃、宇土高校の保護者説明会があったとき、数回行ったことがあります。城跡の一角を駐車場として利用していたのです。だけど、車で通り抜けただけですから、近いうちにゆっくりと城跡を見物してみたいと思っています。
簡単にまとめるとこのようなことのようです。がねの説明で間違いがありましたら、詳しい方はどうぞ遠慮なくご教示くださいね。