電車の中で暇になるだろうと思ったので、スポーツ新聞を読んでいたのだが、その中で松井秀喜選手が英検のSTEPの表紙や道徳の教科書の中で取り上げられるとの記事があった。松井選手がすばらしい選手であることは言うまでもない。しかし、今回の件について、TVでも報道されたが、本人は苦笑いしていたようにも思う。謙遜だけではないように感じた。まだまだこれから先がある選手を道徳の教科書の中に取り上げられるのは賛否両論出てくるのではないかと思う。
私の得意の英語の観点から、STEPに関しても単なる「商品」として英語を見ているようでとても残念である。本人は「今まで英検受けたことないんだけどな」とコメントしていた。困っているようにも感じられなくない。
松井選手は『アメリカに住み、野球をする上でコミュニケーションを取るための英語』を必要としている。つまり、専門用語に置き換えると「第二言語としての英語(English as a Second Language)」なのである。その国の文化、生活、言語に適応するために学習しているのである。日本にいる我々はそれと異なる。我々は「外国語としての英語(English as a Foreign Language)」である。日常で英語を使う必要はめったにない。あたかも日本にいながらも英語を使える必要があるのごとく煽ってるようにも見えかねない。大人にもなって、無批判に、日常会話のみをやりたがり、満足してしまっているようなところもある。自分の考えを述べることを求められると出てこないようである。このままでは知的レベルが疑われてしまう。教養と知的レベル、そして言語が合わさって意味をなすものではないだろうか。
本当にこれでいいのだろうか?
私の得意の英語の観点から、STEPに関しても単なる「商品」として英語を見ているようでとても残念である。本人は「今まで英検受けたことないんだけどな」とコメントしていた。困っているようにも感じられなくない。
松井選手は『アメリカに住み、野球をする上でコミュニケーションを取るための英語』を必要としている。つまり、専門用語に置き換えると「第二言語としての英語(English as a Second Language)」なのである。その国の文化、生活、言語に適応するために学習しているのである。日本にいる我々はそれと異なる。我々は「外国語としての英語(English as a Foreign Language)」である。日常で英語を使う必要はめったにない。あたかも日本にいながらも英語を使える必要があるのごとく煽ってるようにも見えかねない。大人にもなって、無批判に、日常会話のみをやりたがり、満足してしまっているようなところもある。自分の考えを述べることを求められると出てこないようである。このままでは知的レベルが疑われてしまう。教養と知的レベル、そして言語が合わさって意味をなすものではないだろうか。
本当にこれでいいのだろうか?