1年が経つのも早いもの。今年はなおさら。自分自身以外のことと付き合いながら、過ごすとこんなに時が経つのが早く感じ、しかも、季節感を感じながら過ごすのさえも忘れている自分がいた。


こう振り返ると、中途半端になげてしまったブログを見て一目瞭然。いい加減なところを変えたいと去年も、一昨年も思ったではないかと思うのだが、結局、長続きせず。「人を動かす難しさ」を仕事上で感じ、また、「自分自身を変える難しさ」にも直面した。

結論を求めるのが早すぎるのだろうかとも思う。人間を変えるのにはそう早くは変わらない。ましてや、アイデンティティーが確立していく時期の人間相手ならなおさらであろう。


今年はできることから確実に。

Do definately what I can first. That is one of the goals this year, 2007.

気づけば、年も2006年。しかも、年男で厄年。そして、年度末へ。

3年生の授業も終了。ちょっとホッとしている。

とはいえ、2年生の授業の方が多いので、それほど自分の時間が

できるわけではないのではあるが。


3学期入って、4月からを振り返ると、正直、1学期、2学期は辛かった。

今まで避けていたような人間と向き合っていかなければならないストレス、

新たな環境で慣れないことの連続からくるストレス。本当に辛かった。

3学期は気持ち新たに、授業もテンション高く、笑顔でできるだけという

気持ちを持って入ったことが良かったのか、楽しいと自分自身で

感じられるようになってきた。

残りもあと1ヶ月くらい。ラストスパートで頑張りますか。

気づいたら、赴任してもう半年が過ぎ、7ヶ月に差し掛かっている。早いものだ。これまで、全力で駆け抜けてきて、全く余裕もなかった。おかげで、このブログもほったらかしにしていた。

教育困難校での日々は正直なところ、辛さ:喜び=7:3である。英語という教科の性質上、中学校で嫌いになっている、または苦手なので、授業も辛そうなのは察することはできる。とすると、生徒の興味を引くにはというところに論点がいくのであるが、これが難しい...。

日々、工夫を重ね、硬直化していかないように努力するのみか...。

教員生活が始まりあっという間に1学期が終った。

正直ここまで大変だと思わなかった。

極端なことを言えば、カルチャーショックの連続

だった。生徒の学力、実態、とにかく出だしの

1ヶ月は大変だった。

中間テストが終る、5月の終わりごろから体調を

崩し、原因不明の頭痛と微熱が2週間くらい

続いた時もあった。

新たな環境から受けるストレスや精神的疲労の影響

ってかなりあるものだと感じたときだった。

県の審判研修会での体力テストで成績が過去最低

の記録を出してしまった時は自信をなくしてしまった。

夏休みでトレーニングをしたいと思っている。

今日、我が母校の国際理解教育のイベントに参加してきた。
グループ研究の発表を見てきた。
テーマは異文化的、国際的なものである。切り口は様々では
あるものの興味深いテーマが多かった。韓流ブームを切り口に
したものでは、思想、文化、宗教の違いに触れ、
考察もそれなりにできていて感心した。
日本人が無知と思われる話題にも踏み込まれ、
大学生レベルに近いものがあった。
しかも、パワーポイントを見事に使いこなし、かつ、
プレゼンテーションの技術も高い。自分達の時代にも同じ
イベントを行ったが、格段のレベルの違いである。
そういう良くなった面もあるが、悪くなった面も見受けられる。
集合時間にルーズ、なかなか静かにならない。我が母校だけでは
ないかもしれない。しかし、すごく残念に感じてしまった。
もしかしたら、自分が勤務するところも同じだと思うと、
少し不安になった。だが、そこは最初からきちんとやりたいと
思うし、若さ、勢い、明るさで押し切るつもりだ。

夜は恩師が教える、生涯教育の英会話を勉強している団体を
見に行き、参加した。普通の英会話教室なんかに行くよりも
はるかに教材等も含めても安いし、しかも、やってることも
レベルは高いし、楽しく面白い。
普段、独りで英語を勉強する自分にとって、個々それぞれの
年齢も違い、英語力の差はあるものの、
モチベーションが高い人と共に学ぶことがすごく新鮮に感じたし、
いい刺激を受けてきた。
フレッシュな空気を吸い込み、4月からの勤務そして勉強に
臨めそうだ。
フッキーに触発されて書くことを決めた。

研修会など、あらゆる場面で失敗を恐れてるのでは、あるいは何かを警戒しているために、積極的なアプローチや発言ができてないと感じていることがある。間違いなく言えるのは、『「でしゃばり」と思われたくない』そう感じさせる空気が漂っている。だとすれば、『「謙虚に」主張する、アピールする』とはどういうことなのだろうか、どのようにするのか?その問いへの明確な答えが見えてこない。あまりにも前者を警戒しすぎるために、消極的なアプローチしかできない、しかも、悪循環を起こし予期せぬ失敗を犯してしまう。もちろん、自分自身にも経験がある。だからこそ、なんとかしたいというジレンマにある。今が、いい状態で、調子が上向きで来ている。だからこそ、真剣に考えなくてはいけないテーマなのかなとも思っている。

と考えるようになったのは、自分よりも若い仲間が出てきたのだが、彼らの自分への対応がまさに警戒しすぎたような、当り障りのないものだったからである。気を遣うのは元々得意でないが、気を遣われるのも苦手である。年の上下関係なく、鋭い、着眼点のいい意見を欲しいと最近、思うようになった。特に、年下には言ってもらいたいし、そういう空気を作りたいと感じた。それが、自分のためになるし。こっちから教えてあげるのはもちろんだが、一方的になりやすいし、なんか違和感を感じていた。

大切なのはチャレンジする勇気、そして、失敗に対する謙虚な気持ち。失敗を失敗として受容すること。そして、同じことを繰り返さない。今でも、一昨年、ある研修に参加したときに言われた言葉を忘れない。「ミスすることは恥かしいことではない。ミスを繰り返すことが恥かしいことである。」「あったミスの事例を挙げるのは吊るしあげをするためではない。同じ事例を再び起こさないようにするためである。」「その時の状況を整理して、どう判断し、どう処置したから、どうなったかを言えるかができなければまた同じことが繰り返される。」
今日は、父が定年後住む予定にしている、県の中心部からかなり離れた別荘にて、畑仕事などをした。山に囲まれ、空気もすごくきれいなところだ。
朝、5時に出発、今日は空気がとても冷たく、寒かった。

ごみごみした街中にいると、普段、目に止まらないもの、耳に入らないものに気づく。鳥の鳴き声、ヘリコプター、飛行機の音、それから、風の音。一番驚いたのが、北西の山から吹く、ビューという音だ。風はそれ程吹いていない。しかし、山から吹き、森を通る中で聞こえてくる。
日常の中であせくせして、自然、植物に目を向けていなかった自分に気がついた。ラジオはあるが、テレビはない、静かで時の流れをゆったりと感じ、癒されたひと時であった。
前回、更新して以来、時間が空いてしまったことは反省点である。

少し前から考えていたことではあったが、決まったことが1つある。
それは、カレッジではなく、地域協会から1級を目指すということである。これまでは、カレッジという道も視野に入れていた。教員採用試験が不合格になったので、非常勤講師をやりつつカレッジで活動するということを考えていたが、よく考えた末に、地域協会からの道に進むことに決めた。

約1週間前に関東強化審判員の集まりがあったが、そこで感じたのは、身長の高さを理由にしたり、妥協する前に、もっともっと勉強しなくてはならないことはあるし、伸びていけるんではないかということである。背の高さに卑屈になっている場合ではない。小さくてもやれるんだという、アンチテーゼ的な存在を目指したい。
 先日、車で出かける際に、ラジオを聞いていた。現在、トランポリンで世界ランキング1位の選手の話である。そのときに、2004年、アテネ五輪を目の前に、ひき逃げに遭い、出場を断念せざるを得なくなっただけでなく、選手生命を絶つかもしれない重症だったそうだ。懸命な治療とリハビリをし、再び、世界ランキング1位に返り咲き、次の五輪を目指そうとしている。
「引退を決めるときには2つのパターンしかない。1つはナンバーワンになり、満足し有終の美を飾る。もう1つは、自分の力に限界を感じて引退する。自分は、ひき逃げという、第3の原因によって引退するわけにはいかない」と強く思っていたそうである。それを胸に、リハビリを頑張ったと言っていた。絶体絶命、選手生命断念からの返り咲きにはそれ相応のエネルギーを使ったんだろうと思う。

 夢が実現しないかもしれないが、最後まであきらめてはいけない、そう思った。自分の身長は160cmくらいしかない。現実、背の高い人が1級や国際審判員になっている。間違いなくJ主審担当になる人は170cm以上である。背の高さは自分にとって大きな壁になってくると思っている。やはり、大きい人が見栄えはいいし、威厳あるように見えるだろう。たとえ、背の高さよりも判定の正確さが大事だといえども。前例がないというだけで、背が低いからコントロールできないというわけではないとは思っている。あきらめてはいけない。しかし、それ相応のエネルギーで背の低さをカバーできるものを得ないといけないだろう。
電車の中で暇になるだろうと思ったので、スポーツ新聞を読んでいたのだが、その中で松井秀喜選手が英検のSTEPの表紙や道徳の教科書の中で取り上げられるとの記事があった。松井選手がすばらしい選手であることは言うまでもない。しかし、今回の件について、TVでも報道されたが、本人は苦笑いしていたようにも思う。謙遜だけではないように感じた。まだまだこれから先がある選手を道徳の教科書の中に取り上げられるのは賛否両論出てくるのではないかと思う。
私の得意の英語の観点から、STEPに関しても単なる「商品」として英語を見ているようでとても残念である。本人は「今まで英検受けたことないんだけどな」とコメントしていた。困っているようにも感じられなくない。
松井選手は『アメリカに住み、野球をする上でコミュニケーションを取るための英語』を必要としている。つまり、専門用語に置き換えると「第二言語としての英語(English as a Second Language)」なのである。その国の文化、生活、言語に適応するために学習しているのである。日本にいる我々はそれと異なる。我々は「外国語としての英語(English as a Foreign Language)」である。日常で英語を使う必要はめったにない。あたかも日本にいながらも英語を使える必要があるのごとく煽ってるようにも見えかねない。大人にもなって、無批判に、日常会話のみをやりたがり、満足してしまっているようなところもある。自分の考えを述べることを求められると出てこないようである。このままでは知的レベルが疑われてしまう。教養と知的レベル、そして言語が合わさって意味をなすものではないだろうか。
本当にこれでいいのだろうか?