「神は人の敬によりて威を増し、人は神の徳によりて運を添ふ」

鎌倉幕府の『御成敗式目』にある文言で、神と人との関係をあらわしています。

3年以上前、お金を切り口にそんな記事を書きました。

お金の魔力、お金の神力

この記事では、

お金には実体が無いこと。

お金の神様エネルギーが
お出でになるために、

「お社」を建て、
きちんと清潔に保とう
と書いています。

先の記事では、
そのお社=長財布ですが、

今はもちろん考え方が
アップデートしています。

それは
「お社=自分の身体」と
とらえること。

こうすると、
お金だけでは無い、
神様エネルギー全般の話し
になります。

ご神体(しんたい)=ご身体(しんたい)です。

「神は人の敬によりて威を増し、人は神の徳によりて運を添ふ」

神様は人から敬意を払われると、
そのお力が増します。

神様のお力が増すと、
敬意を払った人に
運というエネルギーが宿ります。

ご身体=ご神体にも
敬意を払うと、

その力が増し、
運勢も良くなる。

敬意を払うとは、
大事にすることですが、

”大事に”というのは、
(お金などを)使わない
という意味ではありません。

清潔に保つ。

余計なものを入れない。

そうすることで、
この身に宿る神様に
気持ち良く過ごしていただける。

先のリンク記事にある
長財布本のエッセンスは、

「お財布とは、
お金が気持ち良く過ごせる
空間である」ですが、

これを身体に置き換えると、

「身体(しんたい)とは、
神様が気持ち良く過ごせる
ご神体(しんたい)である」

身体の神社化です。

神様は祈りの集合体であり、

神社には人々の祈りがデータとして蓄積される。

わたしたち人間も、
そんな祈りの集合体であり、

われわれの心身魂には、
自分を核とした
人々の祈りがデータ
として蓄積される。

祈りの核は、
自分というご祭神、
自分の身体という
ご神体です。

もし自分(の身体)に
敬意を払えていないと、

魔が差し込んで
きます。

「あ、魔が来たな」

と不快に感じたら、
塩をまいて追い払うべし。

余計なもの(=魔)を入れない。

もちろん、
普通に生きていれば

魔は差してきます。

「あ、差してきたな」

というのを
不快感として感づく。

そこで、
差し込まれる前に
追い祓う。

もし

「いや、でも自分が我慢すれば」

と不快感に気づいても
祓わないで我慢する人もいる。

我慢する言い訳や口実を
思考でつくりだしてしまう。

そもそも不快感に
感づかないかもしれない。

それが本当に
「大人の対応」という
成熟した態度かどうかは、

「身体(しんたい)とは、
神様が気持ち良く過ごせる
ご神体(しんたい)である」

に照らし合わせると
よいでしょう。

「神様=自分の大事な人(達)」

ととらえてみる。

もしその不快感を
我慢することで、

自分の大事な人(達)が
気持ち良く過ごせないと
するならば、

意志を強くもって、

しっかり祓うことが
成熟した態度では
ないでしょうか。

塩まいちゃえ☆

まあ、自尊心を下げて
魔に差し込まれまくるのも
ひとつの人生とは思います。

思いますが、
自分の大事な人(達)が
気持ち良く過ごせない
世の中は、

僕は好きでは無いし、

そういうのを許して
しまうのは、

成熟した人間では
無いと思うので、
こういう意見です☆

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