先週はオカン(義母)の三回忌がありました
その時、このようなことが書いてある紙を渡されました
供養とは、忘れないこと
人は亡くなると、わずかなお骨を残 して、眼には見えない、手には触れら れない存在になります。でも亡き人の想いや願いは、お付き合いをした方の心の中に残り続けます。人は死んで終わりではないのです。
人が一人生きた証は、関わった人々や社会、また関係性の中に「行い」 「言葉」「想い」の三つの形で残り続け ます。それを大切にまもり、繋いでいくことこそが、故人さまが喜ぶ何よりの供養になります。
一方で私たちは、眼に見えないもの、手に触れられないものをいつまでも感じ続けられるほど強く器用ではありません。亡き人の存在や気配を見 失ってしまわぬように、年回法要や命 日に集まり、皆で話題にして差し上げること、特に「仏さま」になられた故人さまのことですから、その中から「仏さまのような行い・仏さまのような言葉・仏さまのような想い」を丁寧に選び取り、思い出し、話題にして共有し、その中から少しでも代わりに、 したり言ったり考えたりして差し上げること。そのことで私たちは、亡き人と共に人生を歩んでいくことができるのです。生き死にを超えた温かなお付き合いを、大切に、丁寧につとめて参 りましょう。
(原文のまま)
鬼滅の話の中でも出てくる、思いを繋ぐというのもこのことかなぁと思ったりしました😌
その中で僕の中で一番インパクトが残ってるのが煉獄さん
こちらが表面だったかもしれませんが、それも載せておきます
はかない時といのちはたよりになりません。
一寸先はわからないつゆのいのちは、いつどこの道ばたの、草の露のように落ちるかわかりません。
自分のいのちさえ、自分の意志でどうすることもできないのです。
わたしのいのちは時の流れにながされていっときもじっとしていません。
青年期の光りかがやく顔はおもかげもないし、 どこをさがしても、あとかたもないものです。
よくよく考えてみると、過ぎさった時間は二度と戻らないものです。
いのちのはかなさはアッという間にやってきて権力者も、政治の力も、親戚友人の力も、忠実な従業員の力も、妻や子の力も、財産の力でもどうすることもできないのです。
人は、ただひとりでよみのくに(あの世)にゆくだけです。
わたしについてくるものは、 ただこころと行為の、迷いの習慣やさとりの行ないの事実だけなのです。
(原文のまま)
よく身近で亡くなられた方がおられる人に「忘れないのも供養」だと言うようなことを書いてましたが、漠然を思ってたことが説明さてるように思う話が書いてあったので転機しておくことにしました
身近な人を亡くされて、悲しみを引きずられてる方の少しでも心の拠り所となればいいかなぁと思います😌
では、またぁ〜(* ̄∇ ̄)ノ