前回からの続き(4月27日なこと)で、蹴上のツツジの続きです
坂道を今度は下って行きます
その下にはちょっとした公園?がありました
デザインマンホールも
公園全景
そこには看板
近寄ってみると与謝野晶子歌碑の解説でした
アップで
與謝野晶子歌碑
御目ざめの鐘は知恩院聖護院
いでて見たまへ紫の水
このあたり一番は粟田口といわれ、昔は東海道から京都への入り口にあたり、刀鍛冶や陶工が多く住んていたことで有名なところである。
明治34年の新春、新詩社神戸支部と関西文学会の共催する文学同好会考者大会が神戸で開かれ、鉄幹も出席した。その帰途、鉄幹は晶子と思い出多い粟田山麓の宿「辻野」で落ち会い、二泊三日の時を過ごした。
「御目さめの鐘は聖院いでて見たまへ紫の水」
の歌はこの時の作であり、歌集「夢の華」に収められている。
旅館「辻野」はすでになく、今その跡はこの浄水場の敷地となっている。
ここに歌碑が建てられたのは昭和29年11月のことである。京都歌人協会や街道社の有志らが中心となって、さらには雲珠短歌社の協力も得て、旅館「辻野」の跡地の少し西よりのこの場に、石碑を建て、晶子の自筆筆蹟を刻み、晶子の五男にあたる與謝野氏の長女、浩子さんによって除基された。
(原文のまま)
その後ろにその歌碑があります
蹴上のつつじの解説
蹴上のつつじ
明治45年(1912年)、第2疏水から琵琶湖の水を取水して、水道事業を開始するため、この華頂山中腹に、京都で最初の浄水場(躍上浄水場)が完成しました。
この場所は標高が比較的高く、京都市内へ効率的に水を供給するには都合の良い場所でしたが、谷間で平地が少ないため、広い面積を必要とする「緩速ろ過方式」でなく、敷地面積が少なくて済む「急速ろ過方式」が日本で初めて採 用されました。
その際、傾斜地が場内に多く存在し、大雨などで土砂が流れて斜面(法面) が崩れる可能性があったため、その対策として、広く根の張るつつじやさつき を場内にたくさん植栽し、斜面の安定化を図ったと言われています。
今でも、蹴上浄水場には、数千本のつつじやさつきが植えられており、つつじが開花する5月のゴールデンウィーク頃に一般公開を行っています。
一般公開の歴史は古く、大正4年(1915年) に初めて行われたという資料が残っており、当初は、水道事業に対する市民の関心を高め、それにより水道の普及を図るということが目的であったと記載されています。
今後も、防災機能としての役割を継承しつつ、歴史ある敵上のつつじを守り、 より美しく魅せるために計画的なつつじの育成事業に取り組んでいきます。
平成31年(2019年)3月
この場所は標高が比較的高く、京都市内へ効率的に水を供給するには都合の良い場所でしたが、谷間で平地が少ないため、広い面積を必要とする「緩速ろ過方式」でなく、敷地面積が少なくて済む「急速ろ過方式」が日本で初めて採 用されました。
その際、傾斜地が場内に多く存在し、大雨などで土砂が流れて斜面(法面) が崩れる可能性があったため、その対策として、広く根の張るつつじやさつき を場内にたくさん植栽し、斜面の安定化を図ったと言われています。
今でも、蹴上浄水場には、数千本のつつじやさつきが植えられており、つつじが開花する5月のゴールデンウィーク頃に一般公開を行っています。
一般公開の歴史は古く、大正4年(1915年) に初めて行われたという資料が残っており、当初は、水道事業に対する市民の関心を高め、それにより水道の普及を図るということが目的であったと記載されています。
今後も、防災機能としての役割を継承しつつ、歴史ある敵上のつつじを守り、 より美しく魅せるために計画的なつつじの育成事業に取り組んでいきます。
平成31年(2019年)3月
(原文のまま)
画像のアップ
マップを見てたら、公園から「つつじのトンネル」というとこに行けるようなので行ってみました
手すりに沿った先がそのようです
一見、普通のツツジ