国家的な饗宴が行われた施設の跡(豊楽院跡) | レレレの行ってみたらこんなとこ!

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散策で主に史跡、神社仏閣を巡ってます
各地のガイドマップに載っている史跡、山川出版社から出ている歴史散歩シリーズの画像補完計を秘かに計画しています(笑)
ドライブの一助になれば幸いです(^^)
愛書家(読書家とは違います(笑))なもんでたまに本のことも書いてます

前回からの続き(11月23日のこと)です
この日はダイジェストでも書いていたように、初公開される光清寺に拝観するために市内へ向かいました
近くのコインパーキングに停めて、まずは周辺をウロウロ🤣
この辺りは史跡の解説板なり、石碑が多いようで気になってたので、まずはそれらを見て回りましたニヤリ
今回から文字起こしが多いため、文字多めとなります😅
興味ない方はスルーしてください🙇

七本松通り沿いのコインパーキングに停めて、下って行くと丸太町通りがあります
それを更に一筋下ると、旧丸太町通りになり、そこを東へ向かいました
すると道沿いの両側に解説板がびっくり
まずは南側から紹介
フェンスに囲われて、残されています
そのフェンスの中に解説板

源氏物語ゆかりの地
史跡 平安宮跡 豊楽院(ぶらくいん)跡(豊楽殿跡)

まずは解説の方から
源氏物語ゆかりの地
史跡 平安宮跡 豊楽院跡(豊楽殿跡)
 朝堂院(ちょうどういん)の西側にあったのが豊楽院で、延暦19年(800)以後に完成した。規模は東西171m、南北402mあり、この正殿が豊楽殿である。東西に楼閣を備え、その南方には回廊でつながる長大な四つの堂が建ってい た。豊楽殿には天皇が御して国家的な饗宴が行われ、特に正月元旦、大極殿での朝賀(ちょうが)の後の饗宴は盛大であった。しかし、9世紀中頃以降は豊楽殿から紫宸殿(ししんでん)へ儀式の場が移り、11世紀に入ると次第に荒廃し、康平6年 (1063)の焼失後は再建されなかった。
 正月7日この豊楽殿では、前庭に白馬を牽き出して天皇が御覧になり、宴を催す白馬節会がある。『源氏物語』「少女」で、源氏が二条院で白馬節会を行っているが、実際に当時の貴族邸で催されていたかは不明である。1988年に豊楽殿の北縁西側が発掘調査され、緑釉瓦(りょくゆうがわら)で縁取りされた建物は、東西九間(約39m)、南北四間(約16m)と判明し、検出遺構は史跡指定を受け保存されて いる。また2007年には豊楽殿北廊跡とその北にあっ た清暑堂跡南縁が検出され、幅5.2mの西側階段を構成する凝灰岩の一部が見つかっている。調査の結果、北廊は清暑堂(東西基壇幅35m)造営と一連に造作され、 当初は単廊で後に拡幅されたことが判明している。
 平成20年3月 京都市
(原文のまま)

復元図アップ
ボヤけて分かりにくいですが💦
この先にやはり解説があったので、そこの絵を貼っておきます


芝生?になっている部分が建物跡のようです!?

端から


その端にはもう1つの解説板

史跡平安宮豊楽殿跡

解説板

このタイプの解説板は文字の部分が剥げるんですよね😅
  平安宮内には、天皇の住まいである内裏をはじめとして多数の役所が軒を連ねていました。国家的な儀式を執りおこなう場所として平安宮の南中央部には朝堂院が、その西側へは豊楽院が設けられました。豊楽院は、おもに天皇の饗宴を行うことを目的に造営されたものですが、先の都である平城宮や長岡宮には造られていません。
  1987年10月から翌年にかけておこなった発掘調査によって、豊楽殿(豊楽院の正殿)の基壇の西北隅と北側建物への渡り廊下の一部を発見することができました。
  盛り上がった土壇の周りに細い溝が巡っていました。これは基壇を化粧するのに用いた凝灰岩を据えた跡で、切り石の一部が部分的ではありますがよく残っています。こうした基壇を壇上積基壇といいます。これにより、今から1200年前に造られた頃の姿を知ることができます。基壇の上で、5箇所の礎石を据え付けた位置を確認することができました。
  豊楽殿は東西(桁行)9間(39.3m)、南北(梁間)4間(16.2m)の建物で、屋根には緑色をした瓦(緑釉瓦)が葺かれていました。鳳凰が羽を左右に大きく広げた姿をレリーフした緑釉の鴟尾も発見しています。
  今回豊楽殿の北側で見つけた渡り廊下は、造営された時にはなく、後に造られたこともあきらかになりました。敷地内の一段高くなっている所は、基壇跡と廊下跡の一部です。平安宮跡の中でこのように基壇跡が今でも高く盛り上がっているのはこの付近だけです。
  平安宮豊楽殿跡は、古代宮都を解明する上で重要な遺跡であることから平成2年度国の史跡に指定されました。
指定年月日 平成2年2月22日
指定地          京都市中京区聚楽廻西町85
指定面積     542平方メートル
(原文のまま)

もちろんせっかくの画像も剥げてます昇天

解説板にもあったように、旧丸太町通りを挟んで反対側にも史跡が残されています👍
ちなみに右に見えるのは西町通り

豊楽殿北廊跡

奥には清暑堂跡

解説板と石碑

平安宮跡豊楽院跡

解説板

上の解説部分をアップ
史跡 平安宮跡 豊楽院跡 
(清暑堂跡及び豊楽殿北廊跡)
 豊楽院は、正月元日の節会(せちえ)、七日白馬(あおうま)の節会、十六日踏歌(とうか)の節会、十一月の新嘗会(しんじょうえ)と天皇即位後の大嘗会(だいじょうえ)などが行われた国の饗宴の施設です。豊楽院の完成ははっきりとしませんが、文献から9世紀初期には完成していることが分かっています。
  この場所は、豊楽院の正殿である豊楽殿の真北に位置し、天皇控えの建物である清暑堂(せいしょうどう)と清暑堂を繋ぐ豊楽殿北廊(以下北廊)にあたります。平成19年度に発掘調査が 行われ、清暑堂と北廊の一部を確認することができました。
  清暑堂では、基壇の盛土と、基壇の外装である凝灰岩を抜き取った痕跡が認められることから、 清暑堂の基壇幅は東西約35m、南北約11mで、清暑堂と豊楽殿が約30m離れていることが判明しました。さらに、豊楽殿の階段幅 (5.2m)と同じ幅をもつ階段(西階段)が基壇に取り付いていたことが分かり、凝灰岩が組み合わさった状態で残っていました
  北廊では、版築(はんちく)による基壇の盛土と、屋根から落ちる雨水を受ける塼(せん)敷きが残っていました。 北廊は2度にわたって拡幅されており、北廊創建当初は、基壇幅6.4m(1期)であったものが 幅12.0m(2期)に、さらに13.4m(3期)に広げられていることが分かりました。
  先の豊楽殿の発掘調査で、北廊は豊楽殿創建時には存在していなかったことが明らかになっており、今回の調査では、清暑堂と北廊の取付き部分が注目されていましたが、清暑堂の中央に階段は存在せず、清暑堂と北廊は同時に造営されたことが判明しました。
  清暑堂の規模を明らかにできたことは、豊楽殿の解明を進めるための定点となり、北廊の変遷は、調査の狭い平安宮跡において重要な成果であることから、平成2年2月22日に「史跡平安宮豊楽殿跡」として指定を受けた豊楽殿跡を含めて、平成20年7月28日に 「史跡平安宮跡豊楽院跡」と名称変更、追加指定されました。
(原文のまま)


後から行った京都市平安京創生館(京都アスニー内)には、この辺りの史跡のことが展示されていました
その解説も貼っておきます

一部アップ
(京都市平安京創生館展示)

下にあった地図には、上で紹介した京都アスニーのことや、周辺にある解説板が紹介してありましたひらめき
京都市生涯学習総合センター
京都アスニー
「古典の日記念 京都市平安京創生館」
平安京復元模型・豊楽殿復元模型・法勝寺復元 模型・鳥羽離宮復元模型・平安宮造酒司跡出土 品などが展示されています。
所在地 京都市中京区丸太町通七本松西入
開館時間 10:00〜17:00 
入館無料 ボランティア説明あり
休館日 火曜日(祝日の場合は翌日)・年末年始
問い合わせ TEL075-812-7222

京都市考古資料館
平安宮跡出土遺物展示・重文豊楽殿跡出土綠釉 鴟尾などを展示。京都市内の遺跡から出土した縄文時代から江戸時代の出土遺物を通覧できます。
所在地 京都市上京区今出川通大宮東入元伊佐町 開館時間 9:00~17:00 (16:30までに入館) 
入館無料 
休館日 月曜日(祝日の場合は翌日)・年末年始
問い合わせ TEL 075-432-3245
(原文のまま)

その京都アスニー内にある京都市平安京創生館には豊楽殿の復元模型も展示してありましたニコニコ

解説
豊楽殿復元模型
 20分の1模型、実寸は3.4m×1.8m。豊楽殿は豊楽院の中の中心的建物で、国家的饗宴(きょうえん)のための施設です。規模は発掘調査によって、東西46m・南北23m であることが確定しました。また階段の取り付け位置や柱の位置もわかり、瓦や飾り金具などの出土品も確認されました。唐風の大建造物で、屋根の大棟(おおむね)の両端には緑釉(りょうゆう)の鴟尾(しび)が載せられていました。なお隣接する朝堂院の中の大極殿にも形状は似ており、豊楽殿も大極殿と同様に重層であったのではないかとも考えられています。なお豊楽殿北西隣には、造酒司(みきのつかさ)があり、「古典の日記念 京都市平安京創生館」(京都アスニー)の所在地に相当します。
(平安宮豊楽殿跡出土品674点は平成17年に国の重要文化財に指定されました。)
(原文のまま)




(以上、京都市平安京創生館展示)
その京都市平安京創生館のことは後程紹介したいと思います😊

この辺りの散策続きます
では、またぁ〜(* ̄∇ ̄)ノ